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歴史は、背景、できごと、社会の変化、後の時代への影響を順に並べると因果関係が見えます。
この時代を1本の線で見る
- 商業の発達:都市と貨幣経済が広がり、商人の力が強まる
- 幕府の財政難:年貢中心の財政では支えきれなくなる
- 改革のくり返し:田沼意次、松平定信、水野忠邦がそれぞれ違う方針で立て直しを試みる
- 学問と文化の発展:国学・蘭学・化政文化が広がる
- 外国船の接近:日本近海にロシア・イギリス・アメリカ船が現れ、開国前夜へ進む
- 国学・蘭学・化政文化だけを覚えると、時代の緊張感が見えにくい。
- 実際には、商業の発達と幕府財政の苦しさ、さらに外国船の接近が同時に進んでいた。
- だからこの時代は、江戸文化の成熟期であると同時に、幕府の支配が揺らぎ始める時期でもある。
商業と都市の発達
- 三都:江戸・京都・大坂
- 大坂は 「天下の台所」、商人の街
- 江戸は 「将軍のおひざもと」、武家と町人
- 株仲間が商業を独占
江戸時代が進むと、米だけでなく、綿・菜種・藍・茶などの商品作物が各地でつくられ、都市で売買されました。農村にも貨幣経済が入り込み、商人や問屋の力が強まります。
一方で、幕府や藩の収入は基本的に年貢米に依存していました。貨幣経済が発達するほど、米中心の財政とのずれが大きくなり、幕府は何度も改革を行うことになります。
田沼意次・松平定信・水野忠邦の違い
| 人物 | ねらい | 主な政策 | 覚え方 |
|---|---|---|---|
| 田沼意次 | 商業を利用して財政を立て直す | 株仲間を認める、長崎貿易の拡大を図る | 商業重視 |
| 松平定信 | 倹約と農村復興で立て直す | 寛政の改革、倹約令、出稼ぎ人の帰村、朱子学の奨励 | 引きしめ |
| 水野忠邦 | 天保の飢きん後の社会不安をおさえる | 天保の改革、倹約令、株仲間の解散、上知令を試みる | 強い統制 |
田沼意次は、商業の発達を利用して収入を増やそうとしました。これに対して松平定信は、商業の広がりをぜいたくや風紀の乱れと見て、倹約と農村重視で立て直そうとします。水野忠邦はさらに強い統制を試みましたが、社会の変化を押し戻すことはできませんでした。
国学
- 日本古来の文化・古典を研究
- 本居宣長『古事記伝』(35年がかり)
- 賀茂真淵『万葉考』
- 「もののあはれ」を日本の本質と位置づけ
蘭学
- オランダ語を通じて学ぶ西洋の学問
- 杉田玄白・前野良沢『解体新書』(1774)
- 伊能忠敬:日本全国を測量、正確な地図を作成
- シーボルト:長崎で医学・植物学を教える
- 緒方洪庵:適塾(大阪)で多くの志士を育てる
蘭学は、長崎を通じて入ってきたオランダ語の書物から西洋の医学・天文学・地理学などを学ぶ学問です。『解体新書』は人体のしくみを西洋医学から理解しようとした成果で、伊能忠敬の測量は日本列島をより正確にとらえる力につながりました。
- 江戸幕府は対外関係を厳しく制限したが、長崎ではオランダ・中国との貿易が続いた。
- 対馬・薩摩・松前などを通じた周辺地域との関係もあった。
- だから蘭学のように、限られた窓口から入る知識を使って学問が発展した。
寺子屋と教育
- 庶民の子の 読み書きそろばんの場
- 庶民の教育機会が広がり、読み書きのできる人が増えた
- 武士は 藩校で学ぶ
周辺の動き
- ロシア船の接近(1792年ラクスマン、1804年レザノフ)
- イギリス・アメリカの船も現れる
- 異国船打払令(1825年)
- のちのペリー来航(1853年)への伏線
18世紀末から19世紀にかけて、日本近海に外国船が現れる回数が増えました。幕府ははじめ強硬に追い払う方針をとりましたが、アヘン戦争で清がイギリスに敗れると、外国への危機感がさらに強まります。江戸後期の対外問題は、ペリー来航と開国を理解するための前提です。
流れで覚える年表
- 1774年:杉田玄白らが『解体新書』を刊行
- 1787年ごろ:松平定信が寛政の改革を始める
- 1792年:ラクスマンが根室に来航
- 1825年:異国船打払令
- 1830年代:天保の飢きん、大塩平八郎の乱
- 1841年ごろ:水野忠邦が天保の改革を始める
- 1853年:ペリー来航
この単元で見るべき因果関係
江戸後期は、用語を横に並べて覚えるより、「商業が発達したのに、幕府は米中心のしくみを変えきれなかった」という矛盾から見ると整理しやすくなります。都市では貨幣経済が広がり、商人は力を持ちました。しかし幕府や藩の収入は年貢米に大きく依存していたため、物価や流通の変化に対応しにくかったのです。
田沼意次の政治は、この現実を利用しようとした政策でした。商業を認め、株仲間や貿易から収入を得ようとする発想です。一方、松平定信や水野忠邦は、ぜいたくをおさえ、農村を立て直し、幕府の秩序を引き締めようとしました。つまり、3人の改革は単なる人名暗記ではなく、商業を利用するか、商業をおさえるかの違いとして見るとわかりやすい。
- 田沼意次:商業の発達を前提に、幕府財政を立て直そうとした。
- 松平定信:寛政の改革で倹約と農村復興を重視した。
- 水野忠邦:天保の改革で株仲間の解散など、強い統制を試みた。
- 3つの改革は、幕府が社会の変化にどう対応しようとしたかを見る単元。
外国船の接近が意味したこと
江戸後期の対外問題は、ペリー来航だけを突然覚えるとつながりません。ロシア船やイギリス船が日本近海に現れ、幕府は異国船打払令で強硬に対応しました。しかし清がアヘン戦争でイギリスに敗れると、「ただ追い払えばよい」という発想は揺らぎます。江戸後期の学問、政治改革、対外危機は、幕末の開国へ続く同じ流れの中にあります。
練習問題
- 『解体新書』を翻訳した2人
- 『古事記伝』の著者
- 日本全国を測量し、正確な日本地図作成につながる仕事をした人
- 異国船打払令の年
- 田沼意次・松平定信・水野忠邦の政策の違いを、それぞれ一言で説明しなさい。
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(1) 杉田玄白・前野良沢 (2) 本居宣長 (3) 伊能忠敬 (4) 1825年
(5) 例:田沼意次は商業を利用、松平定信は倹約と農村復興、水野忠邦は強い統制で立て直そうとした。
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解答例:都市や農村で貨幣経済が広がり商人の力が強まったが、幕府や藩の収入は年貢米に大きく依存していたため、社会の変化に財政のしくみが合わなくなったから。
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解答例:田沼意次は商業の発達を利用して財政を立て直そうとしたのに対し、松平定信は倹約や農村復興を重視し、商業やぜいたくをおさえようとした。
まとめ
- 江戸後期:商業発達と町人文化
- 幕府財政の悪化に対し、田沼意次・松平定信・水野忠邦が異なる方針で改革
- 国学(本居宣長)・蘭学(杉田玄白・前野良沢)
- 伊能忠敬の日本地図
- 異国船の接近と打払令が、開国前夜の緊張につながる