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左の「来た理由」から右の流れへ ── 1853年の4隻が翌1854年には7隻に増え、日米和親条約で下田・函館が開きます。この条約ではまだ貿易が始まっていない、という点が最重要ポイントです。
そもそも「鎖国」って完全に閉じていたの?
江戸時代の日本が 「鎖国」 していた、と教科書では書かれます。でも実際には、4つの口 から外と関係を持っていました。
江戸時代の「4つの口」
- 長崎口:オランダ・中国(清)と貿易。日本が公式に許した唯一の窓口。
- 対馬口:朝鮮との交流。対馬藩が窓口。朝鮮通信使はここから。
- 薩摩口:琉球王国(今の沖縄)を通じて中国と間接貿易。薩摩藩が支配。
- 松前口:蝦夷地(今の北海道)のアイヌとの交易。松前藩が窓口。
完全に閉じていたわけではなく、「幕府が認めた相手とだけ・幕府の管理のもとで」 交易していた、というのが正確。
つまり鎖国とは「ゼロ」ではなく 「制限つきの貿易」 です。そして、その制限を一気に外させようとしたのが、1853年にやってきたペリーでした。
アメリカはなぜ日本に来たか
テスト勉強では「ペリーが来た」とだけ覚えがちですが、なぜ来たのかを押さえると、その後の不平等条約の話までつながります。
理由1:太平洋を渡る船の中継地が必要
1840年代のアメリカは、西部開拓でカリフォルニアまで領土を広げ、太平洋に出る国になっていました。次の目標は、太平洋の向こう側 ── 中国(清)との貿易です。
当時の船は 蒸気船(じょうきせん)。石炭を燃やして進むので、長距離を行くには途中で石炭・水・食料を補給する港が必要でした。アメリカ西海岸から中国まで、太平洋のちょうど中間に位置するのが日本。日本は「中継基地」として絶好の場所 だったのです。
理由2:捕鯨船の寄港地
もうひとつの大きな理由が 捕鯨です。当時のアメリカは、ランプの油・機械の潤滑油として クジラの油 を大量に必要としていました。電気もなく石油もまだ普及していなかった時代、明かりは鯨油(げいゆ)でともしていたのです。
太平洋でクジラを獲るアメリカの捕鯨船は、長期間の航海の途中で日本近海に来ることもありました。船が壊れたり、水・食料が尽きたりしたとき、日本の港に寄りたい。でも鎖国中の日本は受け入れない。これがアメリカ側のいら立ちでした。
- アメリカの目的は 領土征服ではなく、貿易と寄港地の確保。
- 当時アヘン戦争(1840〜42)で清がイギリスに敗れた直後で、欧米列強がアジアに進出していた。日本がもし拒み続ければ、より強引な国に攻められる可能性もあった。
- 幕府もそれを理解していたからこそ、ペリーの圧力を「跳ね返せない」と判断する。
1853年・1回目の来航 ── 浦賀に黒船
1853年6月、マシュー・ペリー が率いる4隻の艦隊が、江戸湾の入口・浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に現れます。船体が黒く塗られ、煙突から黒煙を出すその姿から、人々はこれを 「黒船」 と呼びました。
ペリーは大統領の親書(しんしょ=公式な手紙)を持っていて、要求は次の3点でした。
①開国 ── 日本の港を開いて貿易を始めたい
②寄港地の提供 ── 蒸気船・捕鯨船のための水・石炭・食料の補給
③漂流民の保護 ── 日本沿岸で遭難したアメリカ人を助けてほしい
幕府はその場での回答を避け、「来年また来てほしい」 と伝えてペリーを引き取らせます。江戸は大混乱でした。冒頭の狂歌「上喜撰(じょうきせん)」は 蒸気船 とお茶の銘柄をかけたもので、「黒船4隻のせいで国中が眠れない騒ぎ」という意味です。
1854年・2回目の来航と日米和親条約
翌1854年1月、ペリーは約束の1年を待たず 7隻の艦隊 で再び現れます。前年より船を増やしての本気の圧力。幕府はもはや拒めませんでした。
1854年3月、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が結ばれます。「親しく和(やわら)ぐ」という名前ですが、実質は 開国の第一歩でした。
①下田(しもだ・静岡県) と 函館(はこだて・北海道) の2港を開く
②アメリカ船に 水・食料・石炭 を提供する
③漂流民を 保護する
④下田に アメリカ領事(外交官)を置くことを認める
注意したいのは、この条約ではまだ「貿易」は始まっていないこと。あくまで「補給と保護」のための開港です。本格的な通商(貿易)は、4年後の 日米修好通商条約(1858) まで待つことになります(次回くわしく)。
続けて各国とも条約 ── 鎖国体制の終わり
日米和親条約のあと、日本は同様の条約をイギリス・ロシア・オランダとも結びます。
- 1854年8月:日英和親条約
- 1854年12月:日露和親条約(樺太・千島の境界線も決める)
- 1855年12月:日蘭和親条約
これで 200年あまり続いた鎖国体制は事実上終了します。アメリカ1か国だけが入ってきたのではなく、欧米列強がいっせいに日本に窓口を作ったのがこの2〜3年です。
開国がもたらしたもの ── 物価上昇と社会不安
港が開いて外国船が出入りするようになると、日本国内ではさまざまな影響が出ます。
金貨の流出
当時、日本の 金と銀の交換比率 は、世界の標準と大きくずれていました。
- 日本国内:金1:銀5(金が銀の5倍の価値)
- 海外:金1:銀15(金が銀の15倍の価値)
この差を利用して、外国商人は 銀を日本に持ち込んで金に交換し、海外で売れば3倍の儲けを得られました。結果、日本から大量の金貨(小判)が海外に流出します。
物価の急上昇
金貨が足りなくなった幕府は、金の含有量を減らした新しい小判を作って数をふやしました。すると、お金の価値が下がる ── つまり 物の値段が急に上がる(インフレーション)。米・油・絹といった生活必需品の値段が跳ね上がり、庶民の生活は苦しくなります。
「攘夷(じょうい)」感情の高まり
「外国人が来たから物価が上がった」「幕府は外国の言いなりだ」── こうした不満が、外国人を打ち払えという「攘夷」運動 につながっていきます。これが幕末(ばくまつ)の動乱の出発点です。
つまり、ペリー来航の本当のインパクトは「黒船が来た」こと自体ではなく、その後に続いた 「金流出 → 物価上昇 → 庶民の不満 → 攘夷運動 → 倒幕運動」 という連鎖反応でした。
幕府の権威がゆらぐ ── 朝廷と大名へ意見を聞いた意味
もうひとつ、ペリー来航のあと幕府がやった、見落とせないことがあります。それが 朝廷(天皇)や全国の大名に意見を求めた こと。
江戸時代の幕府は、外交を含むすべての国の決定を独占していました。それが 「朝廷や諸大名にも相談する」 という前例のない姿勢に変わったのです。これは「幕府だけでは決められないほど大変な事態だ」と認めたことに等しい。
結果として:
- 朝廷の発言力が 復活 する
- 諸藩(とくに薩摩・長州など)が 政治に関わる足がかりを得る
- 「幕府の独占」がゆらぎ、倒幕運動の素地ができる
ペリーの黒船は、開国だけでなく 幕府の権威そのものをぐらつかせたのです。
この章でつまずきやすいところ
ペリー来航の単元は、年号や開港地は覚えても、本文を読み進める途中で「結局この条約で何が始まったの?」と立ち止まる場面が多いところです。読みながら迷いやすい4つの場面を、見分け方のコツとともに整理します。
日米和親条約で貿易が始まったと思い込んでしまう
- つまずく場面:「下田と函館を開いた」と本文で読んだ瞬間に「じゃあここから貿易が始まったんだ」と早合点しがちです。次のページで日米修好通商条約が出てきたとき、「あれ、開国はもう終わったのでは?」と混乱します。
- 克服のコツ:因果関係で整理します。1854年の和親条約は補給と漂流民保護のための開港で、貿易は含まれていません。本格的な貿易が始まるのは1858年の修好通商条約から。教科書では「開国の第一歩」と「貿易の開始」を別の段階として分けて整理しています。
- ミニ例:和親条約のコア要素は下田・函館の開港/水・食料・石炭の提供/漂流民の保護/一方的最恵国待遇。のちに領事の駐在も認められましたが、「品物を売り買いする」という条文はここにはありません。
鎖国を「外国と完全に断絶」と読み取ってしまう
- つまずく場面:本文の「200年続いた鎖国体制」という表現を見て、「日本は誰とも関係を持たずに閉じていた」とイメージしがちです。すると次の「4つの口」の説明が出てきたとき、「鎖国なのに窓口があるの?」と引っかかります。
- 克服のコツ:位置関係で整理します。鎖国はゼロではなく「幕府が認めた相手・場所だけ」の管理貿易です。窓口は長崎(オランダ・清)/対馬(朝鮮)/薩摩(琉球王国を介した東アジア交易)/松前(アイヌ)の4つ。琉球は清と冊封関係をもつ独立した王国で、薩摩はその琉球を介して間接的に東アジアとつながっていました。教科書では「制限つきの貿易」として整理し、ペリーはこの制限を一気に外させようとした、と読みます。
- ミニ例:朝鮮通信使は対馬口、オランダ商館は長崎口、というように、相手ごとに窓口が決まっていました。誰でも自由に出入りできたわけではありません。
ペリー来航がそのまま倒幕につながったように読んでしまう
- つまずく場面:「ペリーが来た→鎖国が終わった→倒幕」と一直線につなげて覚えてしまい、本文の「金流出」「物価上昇」「攘夷運動」という間の段落を読み飛ばしがちです。テストで「開国の影響を説明せよ」と問われると、間の連鎖を書けません。
- 克服のコツ:時系列で整理します。開国 → 金銀比価の差で金貨流出 → 幕府が小判の質を落とす → 物価上昇 → 庶民や下級武士の不満 → 尊王攘夷の高まり → 幕府への信頼低下 → やがて倒幕へという順番です。攘夷から倒幕へ一直線につながるわけではなく、間に公武合体など複数の動きがあったことも教科書では押さえます。黒船が来たこと自体ではなく、その後に続いた連鎖反応が幕末動乱の出発点だと整理します。
- ミニ例:日本国内では金1に対し銀およそ5、海外では金1に対し銀およそ15。外国商人は銀を持ち込んで金に交換し海外で売り、結果として日本から金貨が流出しました(数字は概数)。
日米修好通商条約の不平等条項を読み飛ばしてしまう
- つまずく場面:本文で「1858年に日米修好通商条約を結び、貿易が始まった」と読んだ瞬間に「ようやく開国だ」と安心して、その次の段落にある領事裁判権や関税自主権の説明を流し読みしがちです。テストで「不平等条約とは何が不平等か」を問われると答えに詰まります。
- 克服のコツ:中身で整理します。日米修好通商条約が不平等と呼ばれるのは、主に2点です。(1) 領事裁判権を認めた=日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁けない。(2) 関税自主権がなかった=輸出入の関税率を日本が自由に決められない。この2つを「裁判」と「税金」の問題としてセットで覚えると、後の明治政府が条約改正で何を目指したのかも一本でつながります。
- ミニ例:本文に「領事裁判権」「関税自主権」という言葉が出てきたら、必ず線を引いておくのが鉄則。明治期の岩倉使節団や陸奥宗光・小村寿太郎の章で、この2つがそのまま再登場します。
練習問題
- 黒船
- 浦賀
- 日米和親条約
- 下田
- 鎖国の「4つの口」
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(1) 黒船:江戸時代後期に来航した欧米の軍艦の俗称。船体が黒いタールで塗られていたことに由来。とくにペリー艦隊を指すことが多い。
(2) 浦賀:現在の神奈川県横須賀市にある江戸湾の入口の港。1853年にペリーが来航した場所。
(3) 日米和親条約(1854):ペリーの2回目の来航時に結ばれた、日本最初の本格的な対外条約。下田・函館の2港を開き、アメリカ船への補給と漂流民の保護を約束した。
(4) 下田:現在の静岡県下田市。日米和親条約で開港された港の1つで、アメリカ領事館も置かれた。
(5) 4つの口:江戸時代の鎖国中も、長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口で、それぞれオランダ/中国・朝鮮・琉球・アイヌと交流が続いていた。鎖国は完全な閉鎖ではない。
- 日米和親条約の締結
- ペリーの2回目の来航
- ペリーの1回目の来航(浦賀)
- 日露和親条約
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(3) → (2) → (1) → (4)
- (3) ペリー1回目の来航 ── 1853年6月
- (2) ペリー2回目の来航 ── 1854年1月
- (1) 日米和親条約 ── 1854年3月
- (4) 日露和親条約 ── 1854年12月
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解答例:1840年代のアメリカは西部開拓で太平洋まで領土を広げ、中国との貿易を始めようとしていた。当時の蒸気船は石炭・水・食料を補給する中継地が必要で、太平洋の中間にある日本はそのための絶好の場所だった。また、太平洋で行われていた捕鯨業のための寄港地としても日本の港を必要としていた。これらの理由から、アメリカは日本の鎖国を解いて港を開くことを求めた。
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解答例:当時、金と銀の交換比率が日本国内では1:5、海外では1:15と大きく違っていた。外国商人はこの差を利用し、銀を日本に持ち込んで金に交換し、海外で売って利益を得たため、日本から大量の金貨が流出した。幕府は不足を補うために金の含有量を減らした小判を発行したが、これによりお金の価値が下がり、米や絹などの物価が急上昇した。物価上昇は庶民の生活を苦しめ、外国人を打ち払えという攘夷運動が高まる原因となった。
まとめ
- 江戸時代の「鎖国」は完全閉鎖ではなく、長崎・対馬・薩摩・松前の4つの口で外と関わっていた。
- アメリカは 太平洋の中継基地 と 捕鯨船の寄港地 を求め、1853年にペリーを派遣。1回目(1853)で要求を伝え、2回目(1854)で 日米和親条約 を結ばせた。
- 日米和親条約 = 下田・函館の開港、補給、漂流民保護、領事の駐在。まだ貿易は始まっていない。
- 同じ年にイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を締結 → 200年の鎖国体制が終了。
- 開国は 金貨流出・物価急上昇・攘夷運動 という連鎖反応を引き起こし、幕末動乱の出発点になった。
- 幕府が朝廷や諸大名に意見を求めたことで 幕府の権威がゆらぎ、倒幕運動の素地ができた。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
日米和親条約の原本は、日本側のものが残っていない発展
日米和親条約は1854年(安政元年)に横浜の応接所で結ばれ、日本側の全権は林復斎(はやしふくさい)が務めました。日本側が調印した原本は幕末の江戸城の火災で焼けてしまい、現在残っているのはアメリカ側の原本(アメリカ国立公文書館が所蔵)です。歴史の「実物の証拠」も、災害や戦乱で失われることがあるとわかります。
条約の第3条は「漂流民の保護」をきちんと定めていた発展
日米和親条約は全12条からなり、第3条で、日本の沿岸で遭難したアメリカ船の乗組員を下田または函館へ送り、アメリカ側に引き渡すことを定めています。教科書で習う「漂流民の保護」は、こうした具体的な条文として書かれていました。アメリカが捕鯨や太平洋航海のために寄港地を求めた事情と、条文の内容がぴたりとつながります。
下田の玉泉寺は、日本初のアメリカ総領事館になった発展
下田(静岡県)の玉泉寺(ぎょくせんじ)は、1856年(安政3年)に来日したアメリカ総領事ハリスが住み、日本で初めてアメリカ領事館の旗をかかげた場所です。横浜開港にともない領事館は1859年に閉じられました。開国の最初の窓口となったこの寺は、国の史跡に指定されて今も残っています。
開国の6年後、日本人みずから太平洋を渡った──咸臨丸発展
1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、日本は使節をアメリカへ送りました。批准書を運ぶ使節の本隊はアメリカ軍艦・ポーハタン号で渡米しましたが、その随伴艦として、勝海舟らが操る軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が日本人の手で太平洋を横断し、本隊より先にサンフランシスコへ到達しました。黒船に驚かされた日本が、わずか数年で外洋航海に挑むまでに変わったことを示します。
不平等条約の解消には、開国から約半世紀かかった発展
日米和親条約に続く1858年の修好通商条約では、領事裁判権(治外法権)を認め、関税を自由に決められない不平等な内容を受け入れました。その後の長い交渉の末、1911年(明治44年)の日米通商航海条約でようやく関税自主権を完全に回復しました。開国の「不平等」をなくすのに、日本は半世紀以上をかけたのです。
ペリーが上陸した久里浜では、今も「ペリー祭」が開かれている時事
ペリーが大統領の親書を渡すため上陸したのは、浦賀に近い久里浜(横須賀市)でした。この地のペリー公園では、上陸を記念する「久里浜ペリー祭」が毎年7月ごろに開かれ、上陸記念式典や花火大会などが行われています。教科書の中の出来事が、今も地域の行事として受けつがれていることがわかります。
