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日露戦争 ── 大国ロシアと戦った10年後の日本

日清戦争(1894〜95)で台湾を獲得し、賠償金で軍備を拡張した日本。その10年後、世界最大の陸軍国 ロシアと戦争になります。日露戦争(1904〜05)は、当時の常識では「アジアの小国が欧米の大国に勝てるはずがない」と思われていました。それを 日本が勝ってしまった。世界中に衝撃を与えたこの戦争を、戦争の経過と、戦後に残った課題の両面から見ていきます。

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日露戦争 ── 大国ロシアと戦った10年後の日本の流れ 背景 できごと 変化 影響 歴史は、背景、できごと、社会の変化、後の時代への影響を順 に並べると因果関係が見えます。
日露戦争 ── 大国ロシアと戦った10年後の日本の流れ

歴史は、背景、できごと、社会の変化、後の時代への影響を順に並べると因果関係が見えます。

戦争前夜 ── ロシアの南下と日英同盟

義和団事件(1900)── ロシア軍の満州駐留

用語:義和団事件(ぎわだん じけん)
1900年、清で起きた排外運動と、列強による軍事介入
「扶清滅洋(ふしん めつよう、清を助けて西洋を滅ぼす)」を掲げた宗教団体「義和団」が、北京の外国公使館を包囲。清政府もこれに同調して列強に宣戦。日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・オーストリア・イタリアの8か国連合軍が出兵し、義和団を鎮圧した。日本軍はこのとき欧米から「規律正しい近代軍」と評価された。

事件鎮圧後、ロシアは 満州(現在の中国東北部)から撤兵せず、そのまま居座る。さらに朝鮮にも勢力を伸ばそうとします。「このままでは朝鮮もロシアに取られる」── 日本の危機感は最高潮に達しました。

日英同盟(1902)── 単独でなく英国と組む

用語:日英同盟(にちえい どうめい)
1902年に結ばれた日本とイギリスの軍事同盟
ロシアの南下を警戒する両国の利害が一致して成立。日本がロシアと戦争になった場合、第三国(フランスなど)が参戦したらイギリスも日本側として参戦する、という内容。これによって日本はロシアと 1対1で戦える環境を整えた。明治外交の最大の成果のひとつ。

ロシアと戦うにあたって、最大の心配は 「ロシアの同盟国フランスやドイツが援軍を送ってくる」ことでした。三国干渉のときと同じパターンになる危険があった。

日英同盟は、これを封じる役割を果たしました。「もしフランスが参戦したら、イギリスも日本側に立つ」── 当時世界一の海軍国イギリスと組むことで、ロシアは 援軍を期待できない孤立状態に追い込まれます。

開戦 ── 1904年2月

日露交渉が決裂し、1904年2月、日本軍は 旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃。同時に 仁川(インチョン、朝鮮)でロシア艦を撃破。これらは宣戦布告の前か直後でした。日露戦争の開戦です。

当時の戦力比
  • 陸軍兵力:日本約20万人 vs ロシア約100万人(極東派遣可能は20〜30万)
  • 海軍トン数:日本約26万トン vs ロシア約80万トン(極東艦隊は20万トン弱)
  • 国力(国家予算・人口):日本はロシアの数分の一

日本にとっては「短期決戦で講和に持ち込まないと負ける」戦争。長期戦になれば物量で押し潰される。

戦争の経過

① 旅順攻囲戦(1904年2月〜1905年1月)

旅順(りょじゅん)は遼東半島の先端にあるロシアの軍港。要塞化され、難攻不落とされていました。日本軍(乃木希典・のぎ まれすけ大将率いる第3軍)が攻撃を続け、約半年で 「二〇三高地(にひゃくさんこうち)」を占領。そこから旅順港を砲撃してロシア艦隊を全滅させ、1905年1月に旅順は陥落しました。

日本側の戦死者は約6万人。第二次世界大戦前で最も多くの死傷者を出した戦闘の一つで、明治の日本人にとって悲劇的な記憶となります。

② 奉天会戦(1905年3月)

陸戦の最大の決戦。奉天(ほうてん、現在の瀋陽)で日本軍25万 vs ロシア軍32万が激突。1か月の戦いの末、日本軍が辛勝(しんしょう)。ロシア軍を北へ撤退させましたが、日本軍も限界に近く、これ以上の攻勢は不可能でした。

③ 日本海海戦(1905年5月27〜28日)

用語:日本海海戦(にほんかい かいせん)
1905年5月、日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った海戦
ロシアは旅順艦隊を失った後、ヨーロッパ側の バルチック艦隊を地球の半周(約3万km)かけて極東に派遣。東郷平八郎(とうごう へいはちろう)司令長官率いる連合艦隊が対馬沖でこれを迎撃し、ロシア艦隊38隻のうち 33隻を撃沈・捕獲するという、海戦史上類を見ない圧勝を収めた。

この勝利で、ロシアは戦争継続の海軍力を完全に失います。世界中の海軍関係者が衝撃を受け、トルコでは生まれた子に「トーゴー」と名づけるブームまで起きたほどでした。

ポーツマス条約(1905年9月)

用語:ポーツマス条約
1905年9月、日露戦争の講和条約
アメリカの ルーズベルト大統領の仲介で、アメリカ・ニューハンプシャー州の港町 ポーツマスで講和会議が開かれた。日本側全権は 小村寿太郎(こむら じゅたろう)外相、ロシア側全権は ウィッテ

条約の主な内容:

ポーツマス条約(1905)の主な内容

ロシアは 韓国における日本の優越権を認める

ロシアは 遼東半島の租借権(旅順・大連)を日本に譲渡

ロシアは 南満州鉄道(長春〜旅順)の権益を日本に譲渡

ロシアは 樺太(サハリン)の南半分を日本に割譲

賠償金は 支払わない(最大の争点)

賠償金が取れなかった理由

ロシアは 「敗けたわけではなく、休戦に応じただけ」という立場でした。実際、ロシアの本国はまだほとんど無傷で、シベリア鉄道で兵を送り続けることもできた。一方、日本はもうこれ以上戦えない状態。

だから、賠償金を強く要求すれば交渉決裂・戦争続行となり、日本が敗れる危険があった。小村寿太郎は苦渋の判断で、賠償金なしの講和を呑みました。

日比谷焼打ち事件(1905年9月)── 国民の怒り

条約の内容が伝わると、日本国民は激怒します。「20万人もの戦死者を出して、賠償金ゼロかよ!」── 多くの人は新聞報道などで 勝った勝ったとだけ聞かされており、政府が抱える内情を知らなかったのです。

1905年9月5日、東京・日比谷公園で講和反対の国民大会が開かれ、群衆が暴徒化。政府系の新聞社・警察署・キリスト教会などを焼き打ちしました。これが 日比谷焼打ち事件です。政府は東京に戒厳令(かいげんれい)を発令して鎮圧しました。

つまずきポイント:日露戦争の二つの側面
  • 外側から見れば 「アジアの小国が欧州の大国に勝った歴史的勝利」。世界中のアジア諸国が独立への希望を持つきっかけに。
  • 内側から見れば 「無理を重ねたギリギリの勝利」。賠償金なし・国民の不満爆発・財政の悪化。
  • この二つの面を同時に押さえないと、戦後の韓国併合・第一次世界大戦への流れが見えなくなる。

世界への影響

アジア諸国への希望

欧米の植民地になっていたアジア諸国にとって、日本の勝利は 「アジア人でも欧米に勝てる」という希望でした。トルコ、インド、ベトナム、中国、インドネシアなどで、日本に学ぼうとする独立運動が活発化します。

  • 中国の 孫文(そん ぶん):日本に亡命して革命運動を進める。1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)につながる。
  • インドの ネルー(後の初代首相):少年時代に日露戦争の勝利に感動したと回想。
  • ベトナムの ファン・ボイ・チャウ:「東遊運動」で多数の留学生を日本に派遣。

日本の国際的地位の上昇

日本は欧米列強から 一人前の国として認められ、後の 関税自主権の完全回復(1911、小村寿太郎)へとつながります。1858年の不平等条約から53年。明治の最大の外交目標がついに達成されました。

戦後の課題 ── 朝鮮支配と財政負担

戦争に勝った代償として、日本は新たな問題を抱えます。

  • 朝鮮(韓国)への支配強化:ポーツマス条約でロシアに認めさせた「韓国における日本の優越権」を根拠に、1910年の 韓国併合へ向かう。
  • 南満州の権益:南満州鉄道(満鉄)と関東州(旅順・大連)を経営し始める。後の満州事変・日中戦争の伏線。
  • 財政の悪化:戦費は日清戦争の8倍以上。賠償金が取れなかったため、外国債(外国からの借金)の返済が長く重荷に。
  • 軍部の発言力増大:戦争に勝った軍が政治的影響力を強め、後の昭和の軍部独走の素地に。

練習問題

問題1(用語)
次の用語の意味を簡潔に答えなさい。
  1. 義和団事件
  2. 日英同盟
  3. 日本海海戦
  4. 東郷平八郎
  5. ポーツマス条約
  6. 日比谷焼打ち事件
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(1) 義和団事件(1900):清で起きた排外運動と、それを鎮圧するために8か国連合軍(日本含む)が北京に出兵した事件。事件後、ロシアが満州に居座ったことが日露戦争の遠因になった。

(2) 日英同盟(1902):ロシアの南下を警戒する日本とイギリスが結んだ軍事同盟。日本がロシアと1対1で戦える外交環境を作った。

(3) 日本海海戦(1905年5月):地球を半周してきたロシアのバルチック艦隊を、東郷平八郎率いる連合艦隊が対馬沖で撃破した海戦。世界の海戦史に残る圧勝。

(4) 東郷平八郎:連合艦隊司令長官として日本海海戦でロシア艦隊を撃破した海軍軍人。「東洋のネルソン」と呼ばれた。

(5) ポーツマス条約(1905):アメリカの仲介で結ばれた日露戦争の講和条約。日本は韓国の優越権・遼東半島の租借権・南満州鉄道・樺太の南半分を獲得したが、賠償金は得られなかった。

(6) 日比谷焼打ち事件(1905):賠償金が取れなかったポーツマス条約に怒った民衆が東京・日比谷公園に集まり、政府系新聞社や警察署を焼き打ちした事件。

問題2(年代)
次の出来事を年代の古い順に並べなさい。
  1. 日露戦争の開戦
  2. 日英同盟
  3. 日本海海戦
  4. 義和団事件
  5. ポーツマス条約
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(4) → (2) → (1) → (3) → (5)

  • (4) 義和団事件 ── 1900
  • (2) 日英同盟 ── 1902
  • (1) 日露戦争の開戦 ── 1904年2月
  • (3) 日本海海戦 ── 1905年5月
  • (5) ポーツマス条約 ── 1905年9月
問題3(記述)
日本が日露戦争に踏み切る前に日英同盟を結んだ理由を、当時の国際情勢を踏まえて説明しなさい。
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解答例:当時、ロシアは満州に駐留し続け、さらに朝鮮への南下を進めていた。日本にとって朝鮮の安全は最大の関心事であり、ロシアとの戦争を避けられない状況になりつつあった。しかし、もし日本がロシアと戦争を始めれば、ロシアの同盟国であるフランスなど第三国が援軍を送ってくる可能性があり、日本は孤立して敗北する恐れがあった。これは三国干渉のときと同じ構図である。日本はこれを防ぐため、世界一の海軍国であるイギリスと同盟を結び、第三国が参戦すればイギリスも日本側として参戦するという仕組みを作った。これによってロシアは孤立し、日本はロシアと1対1で戦える環境を整えた。

問題4(記述)
ポーツマス条約で、日本が賠償金を得られなかった理由を説明しなさい。
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解答例:日本は奉天会戦・日本海海戦に勝ったが、戦費・兵力ともに限界に達しており、これ以上戦争を続けることはできなかった。一方、ロシア本国はほとんど無傷で、シベリア鉄道で兵を送り続けることが可能だった。ロシア側は「敗北したわけではなく、休戦に応じただけ」という立場をとり、賠償金支払いを拒否した。日本側全権の小村寿太郎は、賠償金を強く要求して交渉が決裂すれば日本が戦争を続けられず敗北する危険があると判断し、賠償金なしの講和を受け入れた。

問題5(記述)
日露戦争の勝利が、世界のアジア諸国に与えた影響を説明しなさい。
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解答例:当時、欧米列強の植民地となっていたアジア諸国にとって、欧米の大国ロシアにアジアの小国日本が勝利したことは、「アジア人でも欧米と対等に戦える」という希望を与えた。中国の孫文は日本で革命運動を進め、後の辛亥革命につながった。インドのネルーは少年時代に日本の勝利に感動したと回想しており、ベトナムでは多くの留学生が日本に派遣された(東遊運動)。日露戦争は、アジアにおける民族独立運動を活性化させる象徴的な出来事となった。

まとめ

  • 背景:義和団事件(1900)後、ロシアが満州に居座り朝鮮にも南下 → 日本の危機感。
  • 外交:日英同盟(1902)でロシアを孤立させ、1対1で戦える環境を作る。
  • 戦争(1904〜05):旅順攻囲戦・奉天会戦・日本海海戦で日本が勝利。とくに東郷平八郎の日本海海戦は世界の海戦史に残る圧勝。
  • ポーツマス条約(1905)でアメリカ仲介で講和。韓国の優越権・遼東半島の租借権・南満州鉄道・樺太南半分を獲得。ただし賠償金はなし。
  • 日比谷焼打ち事件で国民の不満が爆発。「勝った戦争」と「無理を重ねた戦争」という二つの面を持つ。
  • 世界への影響:アジア諸国に独立への希望(孫文、ネルー、ファン・ボイ・チャウ)。関税自主権の完全回復(1911)へとつながる国際的地位の上昇。
  • 戦後の課題:韓国併合(1910)、満州権益、財政負担、軍部の発言力増大 → 後の戦争への伏線。