放課後ラボの夕方は、たいていにぎやかです。「先生、見て見て!」と呼ばれて駆け寄ると、たいていはゲームで勝った画面か、お互いに作ったものを見せ合っている場面です。子どもたちの目は、思いきり輝いています。
いっぽうで、私たちが最初から「今日はこれを覚えてみよう」と学びの話を始めようとすると、空気はすぐに変わります。「えー、そういうのはいい」「つまらない話は聞きたくない」といった反応が返ってくることもあります。話の途中で、もう次の遊びの相談が始まっていることも、めずらしくありません。
正直に書きます。私がこの活動を始めた原点は、「これからの時代、AIを使いこなせることは大切な力になる。そのためには、まずパソコンを自分の道具として使える必要がある」という思いでした。子どもたちが将来、AIやデジタルに使われる側ではなく、自分で考え、選び、使いこなす側に立てるようにしたい。そんな人を育てたいという気持ちが、もともとの出発点です。
ところが実際に現場に立つと、その理想へまっすぐ進むことは簡単ではありません。子どもたちは遊ぶことに夢中で、こちらが用意した“学び”には、なかなか向き合ってくれません。最初は、どう伝えればいいのかと戸惑いました。
学校をこえて遊べる場所として
けれど、通ってくるのは小学生が中心です。体を動かし、笑い、勝った負けたで一喜一憂する——遊びたい盛りの子どもにとって、それはごく自然なことです。最近は、この夢中に遊ぶ時間の先に、いつか学びにつながる何かがあるのかもしれないと考えるようになりました。
それに、ここには別々の学校に通う子どもたちが集まります。学年もちがう、ふだんは接点のない子どもたちが、画面の前ではあっという間に打ち解けて、一緒に遊んでいます。学校でも家でもない、もうひとつの居場所。この“場”そのものに意味があるのだと、私は自分に言い聞かせています。
子どもの育ちには、テストで測れる力だけでなく、人と関わる力ややり抜く力といった「非認知能力」が大切だといわれます。学校の枠をこえて夢中になれる時間は、たしかにその土壌になっているはずです。そう考えると、遊んでいる時間も決して無駄ではないと思えてきます。
それでも残る、ひとつの問い
ただ、葛藤は消えません。やはり私は、学びにつながる場をつくりたいのです。AIを使いこなせる人、パソコンを自分の道具にできる人を育てたいと思いながら、今の私たちはまだ、それができていると胸を張れる段階にはありません。遊んで、遊んで、思いきり遊んだその先に、「パソコンを使って、今度はこれをやってみたい」という気持ちは、ほんとうに芽生えてくるのでしょうか。
教育の世界では、人から言われてではなく自分の内側からわき出る「やってみたい」——内発的な動機こそが、いちばん深い学びにつながると考えられています。遊びへの夢中は、その入り口になりえます。けれど現場で見ていると、遊びの先に「作ってみたい」が芽生える子もいれば、遊びは遊びのままで終わる子もいます。この個人差が、どこから来るのか。正直なところ、私にもまだはっきりとは分かりません。
それでも、ときどき小さな変化が見えることがあります。ゲームでうまくいかなかった理由を友だち同士で考えはじめたり、誰かが作ったものを見て「それ、どうやったの」と身を乗り出したりする。まだ学習と呼ぶには小さすぎるかもしれません。けれど、その一言や姿勢の中に、遊びが学びへ向かいかける入口が見えることがあります。
きっかけは、となりの子が作ったゲームかもしれないし、ふとした「できた」の瞬間かもしれません。その種をこちらが用意できているのか、それともただ静かに見守るべきなのか——答えの出ないまま、私たちは日々、試行錯誤を続けています。
夢中になれる時間ごと、信じてみる
それでも、ひとつだけ信じたいことがあります。子どもが何かに思いきり夢中になれる場所は、いつか「作りたい」「知りたい」に変わる種を、静かに育てているのではないかということです。その芽がいつ、どんなかたちで出るのかは、子どもによってちがいます。
私がやっていることに、本当に意味があるのかどうか。正直なところ、はっきりとは分かりません。ただ、少しでも意味のあることができているといい。夢中になれる時間の先に、いつか学びがあると信じて、教え込むことを焦らず、この場を続けていきたいと思っています。
楽しさの先に、学びはあるのか。その問いを抱えたまま、今日もまた、放課後ラボの扉を開けます。
