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中学生の学習ノート教科書をもう一段くわしく

倒幕と大政奉還 ── 江戸幕府はどう終わったか

「大政奉還で江戸幕府が終わって、明治時代になった」── そう習いますが、本当の流れはもう少し複雑です。大政奉還(1867年10月)→ 王政復古の大号令(同年12月)→ 戊辰戦争(1868〜69) という3段階を経て、ようやく徳川の時代は終わります。最後の将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)はなぜ自ら政権を返したのか。返したのに、なぜ戦争になったのか。260年続いた幕府の終わり方を、順を追って見ていきます。

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江戸幕府の終わり方 ── 3段階(1867〜69年) 1867年10月 二条城 ① 大政奉還 ── 慶喜が自分から政権を朝廷に返す 狙い:徳川が「新政府の最高実力者」として生き残ること 2か月後、倒幕派が巻き返し 1867年12月 京都御所 ② 王政復古の大号令 ── 薩摩・長州+岩倉具視 慶喜に新政府の役職を与えず、領地の返納も要求 = 徳川排除 納得できない旧幕府側が反発 1868〜69年 約1年半 ③ 戊辰戦争 ── 旧幕府軍 vs 新政府軍 鳥羽・伏見 1868年1月 江戸無血開城 西郷×勝海舟 会津若松城 白虎隊の悲劇 函館・五稜郭 1869年 降伏 緒戦で「錦の御旗」を掲げた新政府軍が官軍に ── 全国支配が確立 「返した」のに戦争になったのは、王政復古で徳川が新政府から排除されたから
江戸幕府の終わり方 ── 大政奉還(1867年10月)→ 王政復古の大号令(同12月)→ 戊辰戦争(1868〜69年)の3段階

「自分から返す」→「排除される」→「戦争になる」の3段階です。大政奉還と王政復古の間はわずか2か月、戊辰戦争は鳥羽・伏見から函館・五稜郭まで約1年半続いた、という時間感覚を図でつかんでください。

幕府を倒す側がまとまるまで ── 薩長同盟(1866)

幕末の倒幕の主役は 薩摩藩(鹿児島) と 長州藩(山口)。ただし、この2藩は最初から仲良しだったわけではありません。むしろ 敵同士 でした。

  • 長州藩:急進的な倒幕派。京都で過激な攘夷活動。
  • 薩摩藩:当初は 幕府寄り。京都の警備を担当し、長州を京都から追い出す側。

1864年の 禁門の変(きんもん の へん) では、長州が京都に攻め込んで御所を狙い、薩摩・会津に撃退されています。お互い銃口を向けあった敵同士、それが薩摩と長州でした。

仲介役は土佐の坂本龍馬

この2藩を結びつけたのが 坂本龍馬(さかもと りょうま) です。土佐藩(高知県)の脱藩志士で、当時33歳。「2藩がいがみ合っていても倒幕は進まない。手を組ませよう」と動きます。

薩長同盟(1866年1月)の中身

①もし長州が幕府と戦になったら、薩摩は長州を支援 する

②薩摩が 武器を買って長州に渡す(長州は幕府に敵視されて武器を買えなかった)

③朝廷を尊重しつつ、幕府を倒す 方向で行動する

薩摩・長州が 「敵 → 同盟」 に転じたことで、倒幕派の力は一気に増します。これがあるから、後の戊辰戦争で薩長軍が幕府軍を破ることができたのです。

15代将軍・徳川慶喜の登場(1867)

1866年、14代将軍・徳川家茂(いえもち)が病死。後を継いで15代将軍になったのが 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)です。当時30歳、頭脳明晰(めいせき)で「徳川一の英才」と呼ばれた人物。

慶喜は、状況を冷静に見ていました:

  • 薩長同盟ができ、倒幕派の軍事力が幕府を上回りつつある。
  • 第二次長州征伐(1866)で幕府軍は長州に敗北。「将軍が長州一藩に負けた」 という事実が広まり、幕府の権威は地に落ちた。
  • このまま戦えば、幕府は完全に潰される。徳川の血筋ごと滅ぼされる可能性も。

そこで慶喜が打った大胆な手が、大政奉還でした。

大政奉還(1867年10月14日)

用語:大政奉還(たいせいほうかん)
将軍が政治を行う権利を、天皇に返すこと
「大政」=大きな政(まつりごと、政治)、「奉還」=うやうやしく返す。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として朝廷から預かっていた政権を、自分の意志で朝廷(天皇)にお返しする、という形をとった。

1867年10月14日、慶喜は京都の 二条城(にじょうじょう) に諸藩の代表を集め、政権を朝廷に返すこと を発表します。これで 260年あまり続いた江戸幕府は、形のうえで終わりました。

でも、ここがポイント。慶喜の狙いは「徳川を滅ぼすため」ではありません。むしろ徳川を生き残らせるため でした。

慶喜の計算:

  • 朝廷は実際の政治を260年やっていない。政権を返されても、朝廷だけでは国を動かせない。
  • 結局は、朝廷のもとで 新政府(合議制) が作られる。
  • その新政府の中心メンバーは 徳川家 のはず。なぜなら一番力と経験があるから。
  • つまり 「将軍はやめるが、新政府の最高実力者として残る」 という青写真。

これが成功すれば、戦をせずに体制が変わる ── スマートな政権交代になるはずでした。しかし倒幕派は、これを見逃しません。

王政復古の大号令(1867年12月9日)

慶喜の計算を打ち破るために、薩摩・長州・公家(くげ)の岩倉具視(いわくら ともみ)らが急いで動きます。1867年12月9日、京都の御所で 王政復古の大号令(おうせいふっこ の だいごうれい) が出されます。

用語:王政復古の大号令(1867年12月9日)
天皇中心の政治に戻すという宣言
幕府も摂政・関白(昔の朝廷の役職)も廃止し、新しい政府(総裁・議定・参与)を作って天皇のもとで政治を行う、と宣言した。徳川慶喜には新政府の役職を与えず、領地(領地・収入)の返納も求める内容だった。

これは慶喜にとって 裏切りでした。「政権は返したのに、新政府には入れない、領地も返せ」── これでは徳川家は完全に潰される。

つまずきポイント:「大政奉還」と「王政復古」を区別する
  • 大政奉還(10月) = 慶喜が 自分から 政権を返した。徳川を残す前提。
  • 王政復古の大号令(12月) = 倒幕派が 慶喜を新政府から完全排除 する宣言。
  • 2か月の差で、状況がガラリと変わったのがわかる。

戊辰戦争(1868〜1869)── 旧幕府軍 vs 新政府軍

王政復古に納得できない旧幕府側と、新政府側との武力衝突が始まります。これが 戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。1868年が干支で「戊辰(つちのえ・たつ)」の年だったことから名づけられました。

① 鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)── 緒戦

京都の南、鳥羽(とば)と伏見(ふしみ) で旧幕府軍と新政府軍(薩長中心)が衝突。兵数では旧幕府軍が約1万5千、新政府軍が約5千で 旧幕府軍のほうが多かったのですが、装備と士気で勝った新政府軍が勝利します。

このとき新政府軍が掲げたのが 錦の御旗(にしき の みはた)。「天皇の軍隊である」という証で、これを掲げたほうが 「官軍(かんぐん)」、対する側は 「賊軍(ぞくぐん)」 となりました。

② 江戸城の無血開城(1868年4月)

新政府軍は江戸へ進軍。最大規模の戦闘になることが予想されました。ここで歴史的に有名な交渉が行われます。

  • 新政府側:西郷隆盛(さいごう たかもり、薩摩)
  • 旧幕府側:勝海舟(かつ かいしゅう)

2人の会談で、江戸城を戦わずに引き渡す(無血開城) ことが決まります。これで江戸の町は戦火を免れました。慶喜は水戸へ退き、後に静岡で隠居生活を送ります。

③ 東北・北海道戦争(1868〜1869)── 戦争の長期化

東北では、会津藩(福島県)を中心に 奥羽越列藩同盟(おううえつ れっぱん どうめい) が結成され、新政府軍に抵抗。とくに 会津若松城 の戦いは激しく、若い武士で組織された 白虎隊(びゃっこたい) の悲劇でも知られます。

最後は1869年、函館の五稜郭(ごりょうかく) に立てこもった旧幕府軍(榎本武揚らの艦隊)が降伏。約1年半の戊辰戦争が終わり、新政府の支配が全国に確立しました。

明治政府の出発点 ── 五箇条の御誓文(1868年3月)

戊辰戦争のさなか、新政府はこれからの方針を世に示しました。五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)です。1868年3月14日、京都御所で天皇が神々に誓う形で発表されました。

五箇条の御誓文(要約)

①広く会議を開き、すべて公の議論で決める

②身分の上下によらず、心を一つにして国家を治める

③武士だけでなく庶民も志を遂げられるようにする

④古い悪習を破り、世界で通用するルール(公道)に従う

⑤知識を世界に求め、皇室の基礎を強くする

「会議で決める」「身分にとらわれない」「世界に学ぶ」── これが明治政府の出発点であり、ここから大規模な改革(廃藩置県・地租改正・徴兵令など)が始まります。

この章でつまずきやすいところ

この単元は「政権を返したのに、なぜ戦争になったのか」がわかりにくい場面です。大政奉還・王政復古・戊辰戦争を別物として並べ、薩長の関係や慶喜の狙いを順を追って読み解くと、本文の流れに迷いが減ります。

「大政奉還」と「王政復古の大号令」を同じ出来事と思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文を読んでいて、1867年10月の大政奉還の直後に12月の王政復古の大号令が出てくると、「同じことを2回書いている?」と感じて立ち止まる場面です。
  • 克服のコツ:時系列で2か月の差をつかむのがコツ。10月は徳川慶喜が自分から政権を朝廷に返した段階、12月は倒幕派が慶喜を新政府から排除すると宣言した段階、と「誰が・何のために」を分けて整理すると役割の違いが見えます。
  • ミニ例:本文では 大政奉還(慶応3年10月14日〈旧暦〉・二条城)→ 王政復古の大号令(慶応3年12月9日〈旧暦〉・京都御所) の順で並びます(新暦では1867年11月/1868年1月にあたります)。間の2か月で、徳川を残す路線から徳川を排除する路線へ変わったと押さえます。

薩摩と長州を最初から仲間だったと思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文の薩長同盟の説明を読んでいて、「もともと味方どうしで手を組んだ」と読み流してしまい、なぜ土佐藩出身者(坂本龍馬・中岡慎太郎ら)の仲介が必要だったのか分からなくなる場面です。
  • 克服のコツ:時系列で「敵 → 同盟」へ転じた点を押さえるのがコツ。1864年の禁門の変では薩摩が長州を撃退した側で、両藩は京都で銃口を向け合った敵同士でした。そのあと1866年に薩長同盟で初めて手を結んだ、という順番で読み直すと意味がつかめます。
  • ミニ例:教科書では 禁門の変(1864)で薩摩が長州を撃退 → 薩長同盟(1866、坂本龍馬・中岡慎太郎ら土佐藩出身者の仲介) と整理されます。「敵 → 同盟」の変化が倒幕派の軍事力をまとめた、と結びつけます。

慶喜が「徳川を滅ぼすつもりで」政権を返したと思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文の大政奉還のところを読んでいて、「政権を返した=降参した」と受け取り、続く戊辰戦争で旧幕府側が戦った理由が腑に落ちなくなる場面です。
  • 克服のコツ:因果関係で慶喜のねらいをつかむのがコツ。第二次長州征伐の敗北で幕府の権威が低下するなか、土佐藩(後藤象二郎・山内豊信〈容堂〉)の建白を受けて大政奉還が行われました。政権を返して倒幕の名目を消し、合議制の新政府で最大の実力者として残るねらいがあったと考えられています。
  • ミニ例:本文では 「将軍はやめるが、新政府の最高実力者として残る」 という見方が示されます。王政復古の大号令で領地返納まで求められたことが、旧幕府側の反発につながったと結果として整理されます。

戊辰戦争を鳥羽・伏見の戦いだけで終わったと思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文の戊辰戦争を読んでいて、鳥羽・伏見の戦いの記述で印象が強く、「ここで決着がついた」と感じて江戸無血開城や五稜郭の話が頭に入りにくくなる場面です。
  • 克服のコツ:時系列で4つの段階に分けるのがコツ。鳥羽・伏見 → 江戸無血開城 → 会津戦争(会津若松城の戦い)→ 函館五稜郭の順で約1年半続いた、と本文の地名の並びをそのまま追います。途中で「官軍/賊軍」が錦の御旗で分かれた点もここに位置づけます。
  • ミニ例:教科書では 1868年1月 鳥羽・伏見 →(西郷隆盛と勝海舟の会談で)江戸城無血開城 → 会津戦争(会津若松城の戦い)→ 1869年 函館五稜郭で終結 と整理されます。最後まで進めて、新政府による全国支配の体制が固まったと結びつきます。

練習問題

問題1(用語)
次の用語の意味を簡潔に答えなさい。
  1. 薩長同盟
  2. 徳川慶喜
  3. 大政奉還
  4. 王政復古の大号令
  5. 戊辰戦争
  6. 五箇条の御誓文
答えを見る

(1) 薩長同盟(1866):坂本龍馬の仲介で、敵同士だった薩摩藩と長州藩が結んだ秘密同盟。倒幕の中核となった。

(2) 徳川慶喜:江戸幕府15代将軍。大政奉還によって自ら政権を朝廷に返した最後の将軍。

(3) 大政奉還(1867年10月):徳川慶喜が、政治を行う権限を朝廷に返した出来事。これによって260年続いた江戸幕府は形のうえで終わった。

(4) 王政復古の大号令(1867年12月):天皇中心の新政府を作るという宣言。幕府も摂政・関白も廃止し、徳川慶喜を新政府から排除する内容だった。

(5) 戊辰戦争(1868〜69):王政復古に反発した旧幕府軍と新政府軍との戦争。鳥羽・伏見、江戸無血開城、会津若松、函館五稜郭と続き、新政府軍が勝利した。

(6) 五箇条の御誓文(1868):明治新政府が発表した基本方針。会議で決める・身分にとらわれない・世界に学ぶ、などを宣言した。

問題2(年代)
次の出来事を年代の古い順に並べなさい。
  1. 戊辰戦争の終結(函館五稜郭)
  2. 大政奉還
  3. 薩長同盟
  4. 王政復古の大号令
  5. 江戸城の無血開城
  6. 鳥羽・伏見の戦い
答えを見る

(3) → (2) → (4) → (6) → (5) → (1)

  • (3) 薩長同盟 ── 1866年1月
  • (2) 大政奉還 ── 1867年10月
  • (4) 王政復古の大号令 ── 1867年12月
  • (6) 鳥羽・伏見の戦い ── 1868年1月
  • (5) 江戸城の無血開城 ── 1868年4月
  • (1) 戊辰戦争の終結(函館五稜郭) ── 1869年5月
問題3(記述)
徳川慶喜が大政奉還を行った狙いを、当時の慶喜の立場と倒幕派の動きを踏まえて説明しなさい。
答えを見る

解答例:当時、薩長同盟が成立し、第二次長州征伐に幕府軍が敗れて幕府の権威が著しく低下していた。このまま倒幕派と戦えば徳川家そのものが滅ぼされる危険があった。慶喜は政権を朝廷に返すことで、倒幕の名目を失わせると同時に、政治経験のない朝廷のもとで合議制の新政府が作られたとき、最大の実力者である徳川家がその中心に残れると考えた。つまり大政奉還は、徳川家を滅ぼさずに体制を変える戦略的な政権返上だった。

問題4(記述)
大政奉還が行われたのに戊辰戦争が起こった理由を、王政復古の大号令の内容にふれながら説明しなさい。
答えを見る

解答例:大政奉還によって慶喜は政権を返したが、徳川家が新政府の中心に残るつもりでいた。これに対し倒幕派は王政復古の大号令を出し、幕府も摂政・関白も廃止して天皇中心の新政府を作るとともに、慶喜には新政府の役職を与えず領地の返納まで求めた。これは徳川家を完全に排除するものであり、旧幕府側はこれに納得できず、新政府側との武力衝突に至った。これが戊辰戦争である。

まとめ

  • 1866年、坂本龍馬の仲介で 薩長同盟 が成立 → 倒幕派の軍事力がまとまる。
  • 1867年10月、15代将軍徳川慶喜が 大政奉還。狙いは徳川家を残しての政権交代。
  • 1867年12月、倒幕派が 王政復古の大号令 を出して慶喜を新政府から排除 → 旧幕府側が反発。
  • 1868年1月の 鳥羽・伏見の戦いから 戊辰戦争が始まり、江戸城無血開城(西郷隆盛・勝海舟)、会津戦争、函館五稜郭の戦い(1869) で終結。
  • 戦争の途中、1868年3月に 五箇条の御誓文 を発表 → 「会議で決める・身分にとらわれない・世界に学ぶ」が新政府の出発点に。
  • 大政奉還(10月)と王政復古(12月)の 2か月の差 で、徳川を残す路線から徳川を排除する路線へガラリと変わった。

もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)

※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。

大政奉還の舞台・二条城は世界遺産発展

徳川慶喜が大政奉還を諸藩に告げた京都の二条城は、今も二の丸御殿が当時の姿を伝えています。1994年に「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録され、江戸幕府が始まり、そして終わった場所として見学できます。

出典:京都市 世界遺産・元離宮二条城(公式)

大政奉還の青写真は坂本龍馬の構想にあった発展

朝廷へ政権を返すという大政奉還の考えは、坂本龍馬が起草に関わったとされる「船中八策」に基づくものでした。そこには政権返上のほか、議会制度や外交・軍制の改革など、のちの明治新政府の基礎となる構想が含まれていました。

出典:国立国会図書館「史料にみる日本の近代」坂本龍馬の政体構想

江戸無血開城は1868年3月に決まった発展

新政府軍による江戸城総攻撃の前日、1868年3月(旧暦)に勝海舟と西郷隆盛が薩摩藩邸で会談し、江戸城を戦わずに明け渡すことが決まりました。これにより100万人都市・江戸は戦火を免れ、のちに江戸は東京と改められ、皇居となりました。

出典:国立国会図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」勝海舟

戊辰戦争最後の地・五稜郭は特別史跡発展

戊辰戦争は1869年、榎本武揚らがたてこもった函館の五稜郭の降伏で終わりました。星形の西洋式要塞である五稜郭は、1952年に国の特別史跡に指定され、北海道で唯一の特別史跡として今も保存・公開されています。

出典:函館市「五稜郭の歴史(箱館戦争から現在)」

敵だった榎本武揚が明治政府の要人に発展

五稜郭で新政府軍と戦い降伏した榎本武揚は、その才能を惜しまれて許され、のちに明治政府で活躍しました。ロシア駐在公使として1875年に樺太・千島交換条約を結ぶなど、旧幕府軍の指導者が近代国家づくりを担った例です。

出典:国立国会図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」榎本武揚

五箇条の御誓文の原本が今も残る発展

1868年3月14日に明治新政府の基本方針として出された五箇条の御誓文は、明治天皇が京都御所で神に誓う形で発表されました。その記録文書は国立公文書館に所蔵され、デジタルアーカイブでだれでも実物の画像を見ることができます。

出典:国立公文書館「日本のあゆみ」五箇条の御誓文が発せられる