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歴史は、背景、できごと、社会の変化、後の時代への影響を順に並べると因果関係が見えます。
幕府を倒す側がまとまるまで ── 薩長同盟(1866)
幕末の倒幕の主役は 薩摩藩(鹿児島) と 長州藩(山口)。ただし、この2藩は最初から仲良しだったわけではありません。むしろ 敵同士 でした。
- 長州藩:急進的な倒幕派。京都で過激な攘夷活動。
- 薩摩藩:当初は 幕府寄り。京都の警備を担当し、長州を京都から追い出す側。
1864年の 禁門の変(きんもん の へん) では、長州が京都に攻め込んで御所を狙い、薩摩・会津に撃退されています。お互い銃口を向けあった敵同士、それが薩摩と長州でした。
仲介役は土佐の坂本龍馬
この2藩を結びつけたのが 坂本龍馬(さかもと りょうま) です。土佐藩(高知県)の脱藩志士で、当時33歳。「2藩がいがみ合っていても倒幕は進まない。手を組ませよう」と動きます。
①もし長州が幕府と戦になったら、薩摩は長州を支援 する
②薩摩が 武器を買って長州に渡す(長州は幕府に敵視されて武器を買えなかった)
③朝廷を尊重しつつ、幕府を倒す 方向で行動する
薩摩・長州が 「敵 → 同盟」 に転じたことで、倒幕派の力は一気に増します。これがあるから、後の戊辰戦争で薩長軍が幕府軍を破ることができたのです。
15代将軍・徳川慶喜の登場(1867)
1866年、14代将軍・徳川家茂(いえもち)が病死。後を継いで15代将軍になったのが 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)です。当時30歳、頭脳明晰(めいせき)で「徳川一の英才」と呼ばれた人物。
慶喜は、状況を冷静に見ていました:
- 薩長同盟ができ、倒幕派の軍事力が幕府を上回りつつある。
- 第二次長州征伐(1866)で幕府軍は長州に敗北。「将軍が長州一藩に負けた」 という事実が広まり、幕府の権威は地に落ちた。
- このまま戦えば、幕府は完全に潰される。徳川の血筋ごと滅ぼされる可能性も。
そこで慶喜が打った大胆な手が、大政奉還でした。
大政奉還(1867年10月14日)
1867年10月14日、慶喜は京都の 二条城(にじょうじょう) に諸藩の代表を集め、政権を朝廷に返すこと を発表します。これで 260年あまり続いた江戸幕府は、形のうえで終わりました。
でも、ここがポイント。慶喜の狙いは「徳川を滅ぼすため」ではありません。むしろ徳川を生き残らせるため でした。
慶喜の計算:
- 朝廷は実際の政治を260年やっていない。政権を返されても、朝廷だけでは国を動かせない。
- 結局は、朝廷のもとで 新政府(合議制) が作られる。
- その新政府の中心メンバーは 徳川家 のはず。なぜなら一番力と経験があるから。
- つまり 「将軍はやめるが、新政府の最高実力者として残る」 という青写真。
これが成功すれば、戦をせずに体制が変わる ── スマートな政権交代になるはずでした。しかし倒幕派は、これを見逃しません。
王政復古の大号令(1867年12月9日)
慶喜の計算を打ち破るために、薩摩・長州・公家(くげ)の岩倉具視(いわくら ともみ)らが急いで動きます。1867年12月9日、京都の御所で 王政復古の大号令(おうせいふっこ の だいごうれい) が出されます。
これは慶喜にとって 裏切りでした。「政権は返したのに、新政府には入れない、領地も返せ」── これでは徳川家は完全に潰される。
- 大政奉還(10月) = 慶喜が 自分から 政権を返した。徳川を残す前提。
- 王政復古の大号令(12月) = 倒幕派が 慶喜を新政府から完全排除 する宣言。
- 2か月の差で、状況がガラリと変わったのがわかる。
戊辰戦争(1868〜1869)── 旧幕府軍 vs 新政府軍
王政復古に納得できない旧幕府側と、新政府側との武力衝突が始まります。これが 戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。1868年が干支で「戊辰(つちのえ・たつ)」の年だったことから名づけられました。
① 鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)── 緒戦
京都の南、鳥羽(とば)と伏見(ふしみ) で旧幕府軍と新政府軍(薩長中心)が衝突。兵数では旧幕府軍が約1万5千、新政府軍が約5千で 旧幕府軍のほうが多かったのですが、装備と士気で勝った新政府軍が勝利します。
このとき新政府軍が掲げたのが 錦の御旗(にしき の みはた)。「天皇の軍隊である」という証で、これを掲げたほうが 「官軍(かんぐん)」、対する側は 「賊軍(ぞくぐん)」 となりました。
② 江戸城の無血開城(1868年4月)
新政府軍は江戸へ進軍。最大規模の戦闘になることが予想されました。ここで歴史的に有名な交渉が行われます。
- 新政府側:西郷隆盛(さいごう たかもり、薩摩)
- 旧幕府側:勝海舟(かつ かいしゅう)
2人の会談で、江戸城を戦わずに引き渡す(無血開城) ことが決まります。これで江戸の町は戦火を免れました。慶喜は水戸へ退き、後に静岡で隠居生活を送ります。
③ 東北・北海道戦争(1868〜1869)── 戦争の長期化
東北では、会津藩(福島県)を中心に 奥羽越列藩同盟(おううえつ れっぱん どうめい) が結成され、新政府軍に抵抗。とくに 会津若松城 の戦いは激しく、若い武士で組織された 白虎隊(びゃっこたい) の悲劇でも知られます。
最後は1869年、函館の五稜郭(ごりょうかく) に立てこもった旧幕府軍(榎本武揚らの艦隊)が降伏。約1年半の戊辰戦争が終わり、新政府の支配が全国に確立しました。
明治政府の出発点 ── 五箇条の御誓文(1868年3月)
戊辰戦争のさなか、新政府はこれからの方針を世に示しました。五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)です。1868年3月14日、京都御所で天皇が神々に誓う形で発表されました。
①広く会議を開き、すべて公の議論で決める
②身分の上下によらず、心を一つにして国家を治める
③武士だけでなく庶民も志を遂げられるようにする
④古い悪習を破り、世界で通用するルール(公道)に従う
⑤知識を世界に求め、皇室の基礎を強くする
「会議で決める」「身分にとらわれない」「世界に学ぶ」── これが明治政府の出発点であり、ここから大規模な改革(廃藩置県・地租改正・徴兵令など)が始まります。
練習問題
- 薩長同盟
- 徳川慶喜
- 大政奉還
- 王政復古の大号令
- 戊辰戦争
- 五箇条の御誓文
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(1) 薩長同盟(1866):坂本龍馬の仲介で、敵同士だった薩摩藩と長州藩が結んだ秘密同盟。倒幕の中核となった。
(2) 徳川慶喜:江戸幕府15代将軍。大政奉還によって自ら政権を朝廷に返した最後の将軍。
(3) 大政奉還(1867年10月):徳川慶喜が、政治を行う権限を朝廷に返した出来事。これによって260年続いた江戸幕府は形のうえで終わった。
(4) 王政復古の大号令(1867年12月):天皇中心の新政府を作るという宣言。幕府も摂政・関白も廃止し、徳川慶喜を新政府から排除する内容だった。
(5) 戊辰戦争(1868〜69):王政復古に反発した旧幕府軍と新政府軍との戦争。鳥羽・伏見、江戸無血開城、会津若松、函館五稜郭と続き、新政府軍が勝利した。
(6) 五箇条の御誓文(1868):明治新政府が発表した基本方針。会議で決める・身分にとらわれない・世界に学ぶ、などを宣言した。
- 戊辰戦争の終結(函館五稜郭)
- 大政奉還
- 薩長同盟
- 王政復古の大号令
- 江戸城の無血開城
- 鳥羽・伏見の戦い
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(3) → (2) → (4) → (6) → (5) → (1)
- (3) 薩長同盟 ── 1866年1月
- (2) 大政奉還 ── 1867年10月
- (4) 王政復古の大号令 ── 1867年12月
- (6) 鳥羽・伏見の戦い ── 1868年1月
- (5) 江戸城の無血開城 ── 1868年4月
- (1) 戊辰戦争の終結(函館五稜郭) ── 1869年5月
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解答例:当時、薩長同盟が成立し、第二次長州征伐に幕府軍が敗れて幕府の権威が著しく低下していた。このまま倒幕派と戦えば徳川家そのものが滅ぼされる危険があった。慶喜は政権を朝廷に返すことで、倒幕の名目を失わせると同時に、政治経験のない朝廷のもとで合議制の新政府が作られたとき、最大の実力者である徳川家がその中心に残れると考えた。つまり大政奉還は、徳川家を滅ぼさずに体制を変える戦略的な政権返上だった。
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解答例:大政奉還によって慶喜は政権を返したが、徳川家が新政府の中心に残るつもりでいた。これに対し倒幕派は王政復古の大号令を出し、幕府も摂政・関白も廃止して天皇中心の新政府を作るとともに、慶喜には新政府の役職を与えず領地の返納まで求めた。これは徳川家を完全に排除するものであり、旧幕府側はこれに納得できず、新政府側との武力衝突に至った。これが戊辰戦争である。
まとめ
- 1866年、坂本龍馬の仲介で 薩長同盟 が成立 → 倒幕派の軍事力がまとまる。
- 1867年10月、15代将軍徳川慶喜が 大政奉還。狙いは徳川家を残しての政権交代。
- 1867年12月、倒幕派が 王政復古の大号令 を出して慶喜を新政府から排除 → 旧幕府側が反発。
- 1868年1月の 鳥羽・伏見の戦いから 戊辰戦争が始まり、江戸城無血開城(西郷隆盛・勝海舟)、会津戦争、函館五稜郭の戦い(1869) で終結。
- 戦争の途中、1868年3月に 五箇条の御誓文 を発表 → 「会議で決める・身分にとらわれない・世界に学ぶ」が新政府の出発点に。
- 大政奉還(10月)と王政復古(12月)の 2か月の差 で、徳川を残す路線から徳川を排除する路線へガラリと変わった。