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約1.6万年前の温暖化を境に、狩りの獲物も道具も住まいも一変しました。岩宿遺跡が旧石器時代の証拠、三内丸山遺跡が縄文の定住の証拠、という左右の対応も図で確かめてください。
旧石器時代 ── 約3.8万年前〜約1.6万年前
- 気候:氷河時代。海面は今より 100m以上低く、日本列島は大陸とつながっていた(一部)。
- 暮らし:移動しながら、ナウマンゾウ・マンモス・オオツノジカなどの大型動物を狩る。木の実なども採集。
- 道具:打製石器(だせいせっき)。石を打ち欠いて作った石器。槍の先・ナイフ・矢じりに使う。
- 住居:固定した家はなく、洞窟や簡単な小屋を移動して使う。
- 1946年、群馬県の 岩宿遺跡で 相沢忠洋(あいざわただひろ)が打製石器を発見。
- それまで「日本に旧石器時代はなかった」と思われていたが、この発見で日本にも旧石器時代があったことが証明された。
縄文時代 ── 約1.6万年前〜紀元前4世紀
- 気候:氷河時代が終わり、温暖化。海面が上昇し、日本列島が 大陸から離れる。
- 環境:森林が広がり、クルミ・トチ・ドングリなどの木の実が豊富に。
- 動物:マンモスなど大型動物は絶滅。代わりに シカ・イノシシなどの中型動物。
縄文時代の暮らし
- 食料:採集(木の実・山菜)/狩り(シカ・イノシシ)/漁(魚・貝)。本格的な農業はまだしない。
- 住居:たて穴住居(竪穴住居)。地面を50cm〜1mほど掘り下げて、屋根をかぶせた半地下の家。
- 定住:旧石器時代と違い、定住生活を始めた。同じ場所に何十年も住み続けた集落も。
- 道具:磨製石器(ませいせっき)(石を磨いて作る)が登場。骨角器(こっかくき=動物の骨や角の道具)も使う。
縄文土器 ── 世界最古級の土器
土器ができて 「煮る」 料理が可能になった。
硬い木の実(ドングリのアク抜き)や肉を 煮て食べることで、食料の幅が広がった。
食料貯蔵もできるので、定住化を支えた。
三内丸山(さんないまるやま)遺跡 ── 縄文の巨大集落
- 場所:青森県青森市
- 時代:縄文時代前期〜中期(約5,500〜4,000年前)
- 規模:最盛期の人口は 500人以上と推定。
- 特徴:直径1mを超える巨大な柱を6本立てた 大型掘立柱建物。長期間(約1,500年)続いた定住集落。
- 遺物:クリの栽培の痕跡。遠方(新潟・北海道)との交易品(ヒスイ・黒曜石)。
三内丸山遺跡は、縄文時代が 「単純な狩猟採集」ではなく、計画的な定住・交易・植物管理を伴う高度な社会だったことを示します。
その他の縄文の遺物
- 土偶(どぐう):女性をかたどった粘土の人形。豊作・出産・健康祈願の祭祀用と考えられる。
- 貝塚(かいづか):捨てた貝殻・骨が積もってできた「ごみ捨て場」の遺跡。大森貝塚(モースが1877年に発見)が有名。
- 耳飾り・腕輪:おしゃれや祭祀の道具。
旧石器と縄文の比較
| 項目 | 旧石器時代 | 縄文時代 |
|---|---|---|
| 気候 | 氷河時代(寒い) | 温暖化 |
| 動物 | マンモス・ナウマンゾウ | シカ・イノシシ |
| 石器 | 打製石器 | 打製+磨製石器 |
| 土器 | なし | 縄文土器 |
| 住居 | 移動・洞窟 | たて穴住居・定住 |
この章でつまずきやすいところ
旧石器・縄文時代は文字がない時代なので、道具や住居・遺跡の名前が次々に出てきて混乱しやすい単元です。このページは誤答辞典でも違い辞典でも解き方ページでもなく、<strong>本文を読み進める途中に効く「読み足しのコツ集」</strong>です。「打って→磨いて」「岩宿は旧石器の証拠/三内丸山は定住の証拠」のように、教科書の段落で一瞬手が止まる場面ごとに、頭の中でそっと一言つけ足して読み進めるための整理を集めました。
打製石器と磨製石器をどちらの時代か取り違える
- つまずく場面:本文に「打製石器」「磨製石器」が続けて出てきたとき、どちらが旧石器でどちらが縄文かが一瞬わからなくなり、読み進める手が止まってしまう場面。
- 克服のコツ:対比表として覚えるのではなく、読書中の所作として固有化するのがコツ。縄文の段落で「磨製石器」が出てきたら、頭の中で「旧石器の打製はそのまま続いている」と一言つけ足して読み進めると、年表が二重に並ぶ感覚になって時代が混ざらない。読み足し動作として身につけると、似た用語が並んでも手が止まらなくなる。
- ミニ例:本文に「縄文時代に磨製石器が登場」とあれば、心の中で「打製は旧石器時代から続けて使われている」と読み足してから次の文に進む。
岩宿遺跡と三内丸山遺跡を同じ時代だと思い込んでしまう
- つまずく場面:本文に「岩宿遺跡(群馬)」「三内丸山遺跡(青森)」と遺跡名が並んだとき、どちらも有名な縄文遺跡だろうと一括りにしてしまい、年表整理で詰まる場面。
- 克服のコツ:発見されたものの中身で見分けるのがコツ。岩宿は打製石器が見つかった旧石器時代の遺跡、三内丸山は大型建物・クリ栽培の痕跡が見つかった縄文時代の大集落。「岩宿=旧石器の証拠」「三内丸山=縄文の定住の証拠」と役割で覚えると混ざらない。
- ミニ例:相沢忠洋が岩宿で打製石器を見つけたことで、日本にも旧石器時代があったとわかった。三内丸山とは時代も役割も別。
縄文時代=ずっと移動生活と思い込んでしまう
- つまずく場面:「採集・狩り・漁」という言葉を見て、縄文の人も旧石器の人と同じく獲物を追って移動し続けていた、と読み取ってしまう場面。たて穴住居や貝塚が出てきても、移動の合間に使った仮の場所だと誤解しやすい。
- 克服のコツ:因果関係で押さえるのがコツ。温暖化で森林が広がり木の実が安定して採れた→土器で煮炊き・貯蔵ができた→同じ場所に住み続ける定住が可能になった、という流れ。たて穴住居や貝塚は「同じ場所に長く住んだから残った跡」と理解すると、移動生活との違いが見える。
- ミニ例:三内丸山遺跡は同じ場所に長く人が住み続けた大集落で、教科書では縄文時代=定住的な採集社会として整理される。
縄文時代にも稲作があったと早合点してしまう
- つまずく場面:本文で「三内丸山ではクリの栽培の痕跡がある」と読むと、つい「じゃあ縄文時代にもお米を作っていたのでは?」と先回りしてしまい、弥生時代との区別があいまいになる場面。
- 克服のコツ:教科書の区分で位置関係を押さえるのがコツ。クリなどの植物管理は縄文でも見られるが、水田を中心にした稲作社会として広がるのは弥生時代として整理される。「育てた=稲作」ではなく、水田を作って米を中心にした社会になったかどうかが境目、と押さえると取り違えにくい。
- ミニ例:三内丸山のクリ栽培の痕跡は縄文の植物管理の例で、結果として弥生に広がる水田稲作の社会とは別物として扱われる。
練習問題
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旧石器:打製石器(石を打ち欠いて作る)
縄文:磨製石器(石を磨いて作る、より精巧)も加わる
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名前:たて穴住居
特徴:地面を掘り下げた半地下式の家。屋根をかぶせる。冬の寒さを防ぎ、夏は涼しい。
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三内丸山遺跡。約5,500年前から1,500年間続いた巨大集落で、500人以上が暮らしたと推定されている。
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「煮る」料理が可能になった。これまで生か焼くしかなかった食材(ドングリのアク抜き、肉の調理)を煮て食べられるようになり、食料の幅が広がった。食料貯蔵もしやすくなり、定住化を後押しした。
まとめ
- 日本列島に人が住み始めたのは 約3万8千年前。氷河時代の 旧石器時代。
- 岩宿遺跡(群馬)で1946年に打製石器が見つかり、日本の旧石器時代が確認された。
- 約1.6万年前から 縄文時代。温暖化で森林が広がり、シカ・イノシシ・木の実中心の暮らしに。
- 縄文土器で「煮る」ができるようになり、たて穴住居で定住を始めた。
- 三内丸山遺跡は、縄文が高度な定住・交易社会だったことを示す。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
縄文遺跡群が世界遺産に(2021年)時事
三内丸山遺跡などをふくむ「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、2021年7月にユネスコの世界文化遺産に登録されました。北海道・青森・岩手・秋田の17の遺跡からなり、1万年以上にわたり農耕にたよらず採集・漁労・狩猟で定住した暮らしと精神文化が、世界的にも珍しいと評価されたものです。
世界最古級の土器は青森から(大平山元遺跡)発展
青森県外ヶ浜町の大平山元遺跡では、模様のない無文土器のかけらが見つかっています。土器についた炭化物を放射性炭素年代測定で調べると紀元前1万3千年ごろのものとされ、北東アジアでも最古級の土器とされています。
DNAが示す『縄文人とクリ』の深い関係発展
三内丸山遺跡から大量に出土したクリの実をDNAで分析すると、野生のクリにくらべて遺伝的な多様性が小さいことがわかりました。これは人がよいクリを選んで育てる『栽培』に近い管理をしていた可能性を示し、縄文の暮らしが単純な採集だけではなかった手がかりになっています。
岩宿遺跡の発見が日本の歴史をぬりかえた発展
群馬県の岩宿遺跡では、1946年に相沢忠洋が関東ローム層の中から打製石器を見つけました。その後の明治大学による発掘で、『日本に旧石器時代はなかった』というそれまでの考えがくつがえり、日本の歴史が一気に数万年前までさかのぼることになりました。
大森貝塚は『日本考古学発祥の地』発展
1877年(明治10年)、アメリカの動物学者モースが汽車の窓から貝層を見つけ、大森貝塚を発掘しました。これは日本で初めての学術的な発掘調査で、報告書も日本初だったため、大森貝塚は『日本考古学発祥の地』と呼ばれています。
