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中学生の学習ノート教科書をもう一段くわしく

飛鳥時代・聖徳太子 ── 十七条憲法と冠位十二階

6世紀末、日本は内輪もめが続く豪族の時代から、天皇中心の中央集権国家へと舵を切りました。その先頭にいたのが 聖徳太子(厩戸王)。冠位十二階と 十七条憲法で役人のしくみと心構えを定め、遣隋使で中国の進んだ制度を学ぶ ── 飛鳥時代の改革を、一段くわしく整理します。

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聖徳太子(厩戸王)574〜622年 推古天皇(初の女帝)の摂政・蘇我馬子と協力 冠位十二階(603年) 役人を12の位に分け、 冠の色で位を区別 家柄(氏姓)でなく 能力・功績で位が決まる → 天皇が任命する役人   のしくみへ第一歩 十七条憲法(604年) 役人の心構えを17条で示す 第1条「和をもって 貴しとなす」 第3条「詔は必ず謹め」 → 法律というより   役人の道徳規範 遣隋使(607年) 小野妹子を隋へ派遣 国書「日出づる処の 天子…」で対等の立場 進んだ制度・文化を学ぶ → 煬帝は怒ったが、隋は   使者を返した(対等扱い) ねらいは共通:天皇中心の中央集権国家づくり
聖徳太子の3つの改革(冠位十二階603年・十七条憲法604年・遣隋使607年)

603年・604年・607年とわずか5年の間に打たれた3つの手は、どれも「天皇中心の国づくり」という同じゴールに向かっています。各改革の中身と「→」の先の効果をセットで覚えましょう。

飛鳥時代の年代

  • 6世紀末〜710年(飛鳥に都が置かれていた時代)
  • 都の場所:飛鳥(あすか、奈良盆地南部)
  • 代表的人物:聖徳太子(厩戸王)・推古天皇・蘇我馬子

大化の改新前の政治状況

6世紀の日本は、有力豪族の 蘇我氏(そがし)と 物部氏(もののべし)が激しく対立していました。仏教受容をめぐる争いで蘇我氏が勝ち、6世紀末には蘇我氏が政治を牛耳るようになります。

聖徳太子の登場

人物
聖徳太子(しょうとくたいし、574〜622年)
本名は 厩戸王(うまやどのおう)。推古天皇(女帝)の 摂政として政治を行った。蘇我馬子と協力しながら、天皇中心の国づくりを進めた。
  • 摂政(せっしょう):天皇の代わりに政治を行う役職。天皇が幼いか、女性で外交が難しい場合に置かれた。
  • 推古天皇は日本初の 女帝。

① 冠位十二階(603年)

用語
冠位十二階(かんいじゅうにかい)
役人の身分を 12の位(くらい)に分け、それぞれに 冠(かんむり)の色を定めた制度。
冠位十二階のねらい

①従来は 家柄(氏姓)で位が決まっていた。

②これに対し、冠位十二階は 個人の能力や功績で位を上げ下げできる仕組み。

③結果:豪族の世襲ではなく、天皇の任命する官僚として役人を組織化。

② 十七条憲法(604年)

用語
十七条憲法
役人の 心構えを17の条文で示した文書。法律というより 道徳規範。
有名な条文

第1条「和をもって貴しとなす」── みんなと仲よくすることを大事にせよ。

第2条「篤く三宝を敬え」── 仏(仏教の三宝)を篤く敬え。

第3条「詔を承りては必ず謹め」── 天皇の命令には必ず従え。

なぜ「憲法」と呼ばれるか
  • 近代的な憲法(国家の最高法)ではなく、役人の道徳規範。
  • ただし、政治の根本方針を示した最古の文書として「憲法」と呼ばれてきた。

③ 遣隋使(けんずいし)── 中国に学ぶ

  • 遣隋使:聖徳太子が、隋(ずい)(中国を統一した王朝)に派遣した使節団。
  • 目的:中国の進んだ政治制度・文化・仏教を学ぶ。
  • 第1回(600年):詳しい記録は中国側に。
  • 第2回(607年):小野妹子(おののいもこ)を派遣。
  • 意義:日本を中国と対等な国として位置づけようとした。
小野妹子が持っていった国書

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

→ 「日の昇る国の天子(聖徳太子)が、日の沈む国の天子(隋の煬帝)に手紙を出します」

隋の煬帝(ようだい)は「無礼だ」と怒ったと伝わるが、隋は使者を返した。日本を 対等な国として扱ったことになる。

飛鳥文化 ── 日本初の仏教文化

  • 聖徳太子の保護で 仏教が広まり、寺院や仏像が作られた。
  • 法隆寺(ほうりゅうじ):聖徳太子建立。現存する世界最古の木造建築。世界遺産。
  • 四天王寺(してんのうじ):大阪。聖徳太子建立。
  • 仏像:法隆寺の 釈迦三尊像・百済観音・弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺)など。
  • 中国・朝鮮の影響を受けつつ、日本独自の仏教文化が芽生え始めた。

聖徳太子の死とその後

聖徳太子は 622年に49歳で亡くなりました。彼の死後、政治の実権は蘇我氏が握りますが、これが 大化の改新(645年)で打破されることになります(次の単元)。

この章でつまずきやすいところ

飛鳥時代は、似た名前の制度や人物関係が多く、本文を読んでいる途中で頭がこんがらがりやすい単元です。読みながら迷いやすい4つの場面を、見分け方と短い例で整理します。

十七条憲法の第1条の主語が誰か分からなくなって読み返してしまう

  • つまずく場面:本文で「十七条憲法」と出てきた瞬間、現代の日本国憲法と同じイメージで読み始め、「第1条 和をもって貴しとなす」が誰に向けた言葉なのか分からなくなって、何度も本文を読み返してしまう場面。
  • 克服のコツ:誰に向けたものかで見分けます。十七条憲法は役人の心構えを示した規範で、国民の権利を定めたものではありません。現代の憲法とは性格が異なり、役人が守るべき方針を示した法として「憲法」と呼ばれている、と整理しましょう。
  • ミニ例:第1条「和をもって貴しとなす」は役人どうしに向けた言葉で、第3条「詔を承りては必ず謹め」も役人に天皇の命令へ従うよう求めるものです。

冠位十二階で完全な実力主義になったと思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文で「家柄ではなく個人の能力や功績で位を決めた」と読み、それ以降は豪族の家柄が関係なくなり、誰でも実力で出世できる社会になったと早合点してしまう場面。
  • 克服のコツ:因果関係でとらえます。冠位十二階は豪族の世襲政治を改める第一歩であって、完全な実力主義ではありません。結果として天皇が位を授ける形に近づき、後の律令制へつながった、と整理します。
  • ミニ例:冠位十二階は天皇が個人に冠位を授ける形をとり、家柄の影響がすぐに消えたわけではなく、後の律令制での官僚制度へつながっていく第一歩でした。

聖徳太子が一人で全部やったと思い込んでしまう

  • つまずく場面:本文で聖徳太子の名前ばかり目立つので、冠位十二階も十七条憲法も遣隋使も聖徳太子が単独で決めた、と感じてしまい、推古天皇や蘇我馬子の役割を読み飛ばしてしまう場面。
  • 克服のコツ:位置関係で押さえます。聖徳太子は推古天皇の摂政であり、蘇我馬子と協力して改革を進めました。摂政は天皇の代わりに政治を行う役職で、太子が天皇だったわけではない、と整理しましょう。
  • ミニ例:推古天皇は最初の女性の天皇で、聖徳太子はその摂政。蘇我馬子も有力豪族として政治を支え、三者が協力して改革を進めました。

遣隋使と遣唐使を読みながらごちゃ混ぜにしてしまう

  • つまずく場面:本文の「遣隋使」を読んでいる途中で、これまで聞いたことのある「遣唐使」とどちらが先だったか、小野妹子はどっちに行ったのか、急に自信がなくなってしまう場面。
  • 克服のコツ:時系列で並べます。聖徳太子の時代に派遣されたのは遣隋使(隋の時代)。隋が滅び唐になってから派遣されるのが遣唐使で、これは次の奈良時代以降に登場します。飛鳥時代=遣隋使、と先にロックしておくと迷いません。
  • ミニ例:本文では607年に小野妹子が遣隋使として隋へ渡り、隋の皇帝(煬帝(ようだい))にあてて国書を送った、と整理されています。唐の話はまだ出てきません。

練習問題

問題1(人物)
聖徳太子の本名は何か。誰の摂政として政治を行ったか。
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本名:厩戸王(うまやどのおう)

誰の摂政:推古天皇(日本初の女帝)

問題2(冠位十二階)
冠位十二階の制度のねらいは何か。それまでの制度との違いを答えなさい。
答えを見る

ねらい:家柄ではなく、個人の能力や功績で役人の位を決めること。

違い:それまでは 氏姓(家柄)で位が決まっていたが、冠位十二階以降は天皇が能力に応じて位を授ける形に変わった。

問題3(十七条憲法)
十七条憲法の第1条の有名な言葉を書きなさい。意味は?
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「和をもって貴しとなす」

意味:みんなと仲よくすることを最も大切にせよ。

問題4(遣隋使)
607年に隋に派遣された日本の使者は誰か。彼の持参した国書で隋の煬帝はなぜ怒ったか。
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使者:小野妹子

怒った理由:国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれ、隋の皇帝と日本の天皇を 対等に並べていたから。

まとめ

  • 飛鳥時代は 6世紀末〜710年。都は飛鳥(奈良盆地南部)。
  • 聖徳太子(厩戸王)が 推古天皇の摂政として、天皇中心の国づくりを進めた。
  • 3つの改革:冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)・遣隋使(607年)。
  • 遣隋使 小野妹子を派遣し、中国の制度・文化を学んだ。日本を対等な国と位置づけようとした。
  • 仏教を保護し、法隆寺を建立 ── 飛鳥文化の中心。

もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)

※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。

法隆寺は1993年に日本で初めて世界遺産になった発展

聖徳太子ゆかりの法隆寺をふくむ「法隆寺地域の仏教建造物」は、1993年(平成5年)12月に、姫路城とならんで日本で最初にユネスコの世界文化遺産に登録されました。金堂や五重塔などは7世紀に建てられた現存する世界最古の木造建築で、同じ時代の建築が残っていない中国や朝鮮の様式を今に伝える貴重な遺産です。

出典:文化庁 文化遺産オンライン(世界遺産 法隆寺地域の仏教建造物)

1月26日「文化財防火デー」は法隆寺の火災が由来発展

1949年(昭和24年)1月26日、現存する世界最古の木造建築である法隆寺の金堂が火災にあい、貴重な壁画が焼損しました。これをきっかけに翌1950年(昭和25年)に文化財保護法がつくられ、その後1955年(昭和30年)に1月26日が「文化財防火デー」と定められて、今も全国で文化財を火災から守る取り組みが行われています。

出典:文化庁(文化財防火デー)

聖徳太子は昭和の一万円札の顔だった発展

聖徳太子の肖像は、戦前から戦後にかけて何度も日本の紙幣に使われ、聖徳太子をえがいた一万円札は1958年(昭和33年)12月1日に発行されました。この一万円札は1986年(昭和61年)1月4日に発行が停止されましたが、今でも全国の銀行などで現在のお札と交換できます。

出典:日本銀行(過去に発行された一万円券)

2024年の新しい一万円札の顔は聖徳太子ではない時事

2024年(令和6年)7月3日、20年ぶりに新しいお札が発行されました。新しい一万円札の肖像は、明治・大正時代に多くの会社の設立にかかわった渋沢栄一で、聖徳太子のように昔の人物がずっと使われ続けるわけではないことがわかります。お札の顔は、その時代に大切にされた人物像を映しています。

出典:政府広報オンライン(2024年7月3日、新しいお札が発行)

教科書で「聖徳太子」と「厩戸王」が併記される理由発展

「聖徳太子」は後の時代におくられた呼び名で、本名は厩戸王(厩戸皇子)です。歴史研究が進み、後世の伝説と当時の事実を区別するため、教科書では「聖徳太子(厩戸皇子)」のように両方を併記したり、厩戸皇子を主に使ったりする工夫がされています。

出典:レファレンス協同データベース(国立国会図書館:教科書の聖徳太子・厩戸皇子の表記)