図でつかむ
奈良時代の84年を1本の年表で整理しました。聖武天皇の在位中の743年に、大仏造立の詔と墾田永年私財法という2つの大きな政策が重なっていること、そして墾田永年私財法が荘園の始まりにつながることを図で押さえてください。
平城京遷都(710年)
- 場所:今の奈良市
- モデル:唐の都 長安(碁盤目状の整然とした計画都市)
- 規模:東西約 4.3km、南北約 4.8km。人口約 10万人。
- 中心:南北を貫く 朱雀大路(すざくおおじ)。北端に 平城宮(天皇の住まい・政治の中心)。
- 貨幣:708年に唐にならった貨幣 和同開珎(わどうかいちん)が鋳造され、平城京の市(いち)などで使用された。
前の藤原京は手狭になっていた。
律令制を整えた天皇は、その威厳を示す 大きな都を必要とした。
中国(唐)と肩を並べる国であることを内外に示す目的。
聖武天皇(しょうむてんのう)の治世
- 聖武天皇の時代、天然痘(てんねんとう)の大流行・大地震・反乱などが続発。
- 「仏の力で国を守ろう」と考え、各地に 国分寺・国分尼寺を建立。
- 743年、東大寺の大仏建立を命令。
東大寺と大仏
正式名盧舎那仏(るしゃなぶつ)
高さ約 14.7m(座像で)
完成752年に開眼供養(大仏に魂を入れる儀式)
材料銅約 500トン、金約 440kg
建設のべ 260万人が関わった国家事業
大仏づくりには多くの民衆の協力が必要でした。橋や用水路をつくり 民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)は、当初は無許可の布教を朝廷から禁じられていましたが、聖武天皇は行基の人望を頼って大仏造立への協力を求め、行基は弟子とともに各地で寄付や労働の呼びかけに応じました。この功績により、行基は僧として最高位にあたる 大僧正(だいそうじょう)に任じられています。
東大寺は 「総国分寺」として、全国の国分寺を束ねる中心寺院でした。大仏殿は世界最大級の木造建築。
三世一身法(さんぜいっしんのほう、723年)
- 期限付きの私有だったため、期限が近づくと農民は開墾への意欲を失った。
- 土地はいずれ国に返される(収公される)ので、新田開発はあまり進まなかった。
- そこで20年後の743年、私有期限をなくす 墾田永年私財法が出されることになる。
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう、743年)
- 三世一身法では効果が不十分で、口分田が足りなくなり、新たな田が必要だった。
- 「開墾してもどうせ国に取られる」と農民が消極的になっていたため、期限をなくして永久私有を認めることでやる気を出させる狙い。
- 結果:力のある豪族・寺社が 大規模な私有地(荘園)を持ち始めた。
- これが平安時代の 荘園制の始まりとなり、律令制を内側から崩していく。
天平文化 ── 国際的な仏教文化
遣唐使(けんとうし)
- 遣唐使:日本から 唐(中国)に派遣された使節団。630〜894年まで20回近く。
- 目的:唐の進んだ政治・文化・仏教を学ぶ。
- 有名人:阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(唐で官僚になり、帰国できず)/鑑真(がんじん)(唐の高僧、6度目で日本に到着、唐招提寺を建立)。
奈良時代の代表的書物
- 『古事記』(712年):日本最古の歴史書。神話から推古天皇までを記す。太安万侶(おおのやすまろ)編。
- 『日本書紀』(720年):国家正式の歴史書。神話から持統天皇まで。漢文で記す。
- 『万葉集』(8世紀後半):日本最古の歌集。約4,500首の和歌。天皇から農民・防人までの幅広い作者。万葉仮名で書かれている。
- 『風土記』:地方の地理・伝承を記した書物。
正倉院 ── 天平のタイムカプセル
- 正倉院(しょうそういん):東大寺にある宝物殿。聖武天皇の遺品が保管されている。聖武天皇の死後、光明皇后が天皇の遺愛品を東大寺の大仏に奉献したものが、正倉院宝物の中心となった。
- 校倉造(あぜくらづくり):木材を組み合わせた特殊な構造。湿度を一定に保つので宝物が現存する。
- 宝物:ペルシャ・インド・西域からの工芸品。シルクロードを通って日本まで届いたものが多数。
奈良時代の終わり
奈良時代末期は、僧侶の 道鏡(どうきょう)が女帝(孝謙・称徳天皇)を背景に政治に影響力を持つなど、宮廷が乱れました。称徳天皇の死後、770年に道鏡は失脚し、光仁天皇を経て781年に桓武天皇が即位します。桓武天皇はまず784年に都を長岡京に移し、その後794年に 平安京へ遷します(次の単元)。
この章でつまずきやすいところ
奈良時代は、710年の平城京遷都から始まり、聖武天皇の仏教政策・墾田永年私財法・天平文化と、固有名詞と因果関係が密に絡む単元です。本文を読み進める途中で「あれ、どっちだっけ?」と止まりやすいポイントを、迷いの場面ごとに整理しておきましょう。
平城京と平安京を読み間違える
- つまずく場面:本文に「平城京」と「平安京」の両方が出てきたとき、漢字一字違いなので、どちらが奈良でどちらが京都かが頭の中で入れ替わってしまい、「710年に遷都したのはどっちだっけ?」と止まってしまう場面。
- 克服のコツ:時系列で押さえるのがコツです。710年=平城京(奈良)、794年=平安京(京都)の順で、奈良時代の始まりと終わりに対応します。「城」の字が入る方が先(奈良)、「安」の字が入る方が後(京都)と、字と順番をセットで覚えると、本文を読み返さなくても判別できます。
- ミニ例:本文に「710年、唐の長安をモデルにした平城京」とあれば、これは奈良時代の始まり。「794年に都を平安京に遷します」とあれば奈良時代の終わり、と整理できます。
国分寺と東大寺の関係を別物だと思い込む
- つまずく場面:本文で「各地に国分寺・国分尼寺を建立」と書かれた直後に「東大寺の大仏建立」が出てくると、国分寺と東大寺が別々の宗教事業のように感じられ、なぜ同じ聖武天皇の話としてまとめて出てくるのかが分からなくなる場面。
- 克服のコツ:因果関係で整理するのがコツです。聖武天皇は仏教の力で国を守ろうと考え、その政策の一環として全国に国分寺・国分尼寺を置きました。さらに東大寺は全国の国分寺の中心(総本山)にあたる寺院と位置づけられます(「総国分寺」と呼ばれることもあります)。つまり国分寺ネットワークの頂点に東大寺がある、という縦の関係です。
- ミニ例:「各地に国分寺・国分尼寺を建立」→「東大寺は全国の国分寺の中心にあたる」と読み進めれば、両方が一つの仏教政策の中にあると見えてきます。
墾田永年私財法を「農民が得をした法律」と読み取ってしまう
- つまずく場面:本文で「新しく開墾した土地を永久に私有してよい」とあると、農民の所有が認められたのだから良い法律のように感じ、その後の「公地公民の原則が崩れた」「荘園が拡大した」という流れが、なぜマイナス評価になるのかピンとこなくなる場面。
- 克服のコツ:因果関係で押さえるのがコツです。開墾には道具や人手が必要なので、結果として大規模に私有地を広げられたのは力のある豪族や寺社でした。その私有地が荘園となり、公地公民の原則を内側から崩し、のちの律令制の動揺につながった、と教科書では整理します。誰が得をしたかを問うと流れが見えます。
- ミニ例:「奈良時代の途中で永久私有を認める」→「有力な豪族・寺社が大規模な荘園を持つ」→「公地公民が崩れる」という因果の鎖で読むと、農民個人の話ではないと分かります。
天平文化を「日本独自の文化」と思い込む
- つまずく場面:本文で「奈良時代の文化」「正倉院」「万葉集」と並ぶと、いかにも日本らしい古典文化に見えてしまい、後で出てくる「シルクロード」「西域」「鑑真」などの国際的な要素と、頭の中でうまくつながらなくなる場面。
- 克服のコツ:比較の軸で押さえるのがコツです。教科書では天平文化=仏教中心・国際色、国風文化(平安時代)=日本的なかな文字文学として対比します。天平文化は遣唐使を通じて唐・西域・インドの影響を受けており、正倉院に伝わる宝物にはシルクロードを通じて伝わったものもあって、国際色を象徴している、と整理しておくと混同しません。
- ミニ例:正倉院には、西アジアや中央アジア(西域)の文化の影響を受けた工芸品が伝わっています。一方で『万葉集』は万葉仮名で書かれた和歌集。国際的な要素と国内的な要素の両方を含むのが天平文化です。
練習問題
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710年、唐の都 長安をモデルに作られた。場所は 現在の奈良市。
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天皇:聖武天皇
完成:752年(開眼供養)
理由:天然痘の流行・地震・反乱などで国が乱れたため、仏の力で国を守ろうとした。
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内容:新しく開墾した土地を永久に私有してよいと認めた法律(743年)。
影響:公地公民の原則が崩れ、有力豪族や寺社が大規模な私有地(荘園)を持つようになり、律令制が崩れる原因の一つになった。
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最古の歴史書:『古事記』(712年)
最古の和歌集:『万葉集』(8世紀後半、約4,500首)
まとめ
- 710年、平城京(奈良)に遷都。唐の長安をモデルにした計画都市。
- 聖武天皇が仏教の力で国を守ろうと、東大寺の大仏を建立(752年完成)。
- 各地に 国分寺・国分尼寺を置く。
- 743年の墾田永年私財法で公地公民が崩れ、荘園が生まれる。
- 天平文化は仏教中心・国際的。遣唐使で唐から学び、シルクロードの宝物が 正倉院に残る。
- 奈良時代の文学:古事記・日本書紀・万葉集・風土記。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
正倉院の宝物は今も毎秋公開される時事
聖武天皇ゆかりの宝物を収める正倉院では、毎年秋に奈良国立博物館で「正倉院展」が開かれます。2025年の第77回展は10月25日から11月10日まで開催され、ガラスの器「瑠璃坏」など67件が出陳されました。教科書に出る正倉院の宝物が、今も大切に守られ実際に見られることがわかります。
元号「令和」は奈良時代の『万葉集』が出典時事
2019年に始まった元号「令和」は、奈良時代の歌集『万葉集』巻五「梅花歌三十二首并序」の序文「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」から採られました。中国の古典ではなく日本の書物(国書)が出典になったのは、大化以来248番目の元号で初めてのことです。奈良時代の文学が現代の私たちの暮らしにつながっています。
平城京や東大寺は世界遺産になっている発展
奈良時代の都や寺は、1998年に「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。東大寺や平城宮跡など8つの資産がふくまれ、唐との交流を通して日本文化の原型が形づくられた時代の証として評価されています。教科書で学ぶ場所が世界的に重要な遺産であることがわかります。
平城宮の正門が研究をもとに復原された発展
平城宮跡では、天皇の即位など重要な儀式が行われた第一次大極殿院の正門「大極門(南門)」が、史料や中国・日本の例の研究をもとに復原され、2022年3月に完成しました。間口約22メートル、高さ約20メートルの二重門で、当時の都のすがたを実物大で確かめられます。発掘や研究で過去の姿がよみがえることを示しています。
今の大仏は何度も修理された「つぎはぎ」の姿発展
東大寺の大仏殿は、1180年の平家による南都焼討ちと、1567年の戦国時代の兵火で二度焼け落ち、そのたびに再建されてきました。そのため今の大仏は、頭部が江戸時代、腰部が鎌倉時代の補修で、奈良時代(752年開眼)のままの部分は胸から台座などごく一部だけです。一つの像に複数の時代が重なっているのです。
