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歴史は、背景、できごと、社会の変化、後の時代への影響を順に並べると因果関係が見えます。
背景 ── モンゴル帝国の拡大
- 13世紀、チンギス・ハンが率いるモンゴル帝国がユーラシアを征服。世界史上最大の帝国。
- 孫の フビライ・ハンが中国を支配し、国名を 元(げん)とした(1271年)。
- フビライは日本にも従属を求める使者を派遣。1268年から複数回。
- 幕府の執権 北条時宗がこれを拒否。
文永の役(1274年) ── 第1次元寇
兵力元・高麗連合軍 約 30,000人、軍船 約 900隻
上陸10月、対馬・壱岐を経て 博多湾(福岡)に上陸
戦法元軍は 集団戦法と 火薬(てつはう)を使う。日本の武士は一騎打ち中心で苦戦。
結果一夜にして元軍は撤退。暴風雨(神風?)で多数の船が沈没。
- 元軍は補給の問題、上陸の困難、寒さで先に撤退を決めていた可能性が高い。
- 夜の撤退中に暴風雨に巻き込まれ、結果として大損害を出した。
- 当時の日本人は、暴風雨を「神風」(神の助け)と信じた。
文永の役後の備え
- 幕府は 博多湾沿いに石塁(防塁)を築き、再侵攻に備えた。長さ約20km、高さ2〜3m。
- 御家人だけでなく、九州の 非御家人にも防衛役を課した。
- 沿岸警備の 異国警固番役(いこくけいごばんやく)を制度化。
弘安の役(1281年) ── 第2次元寇
兵力元・高麗・南宋の連合軍 14万人以上、軍船4,000隻以上(世界史上最大級の侵略軍)
経過東路軍(朝鮮半島から)と江南軍(中国南部から)の2軍が合流予定。
防御博多湾の石塁で上陸を阻止。日本軍は夜襲で元軍の船を攻撃。
結末2か月以上にらみ合いの後、大型台風(神風)に襲われ、元軍は壊滅。船の多くが沈没し、生還した兵は3分の1以下。
北条時宗の決断
元寇の影響 ── 御家人の困窮
①元寇は 侵略を防いだだけで領土を得ていない。
②幕府は御家人に 戦闘の褒美(恩賞)として与える土地がなかった。
③御家人は戦費・装備で 借金を負い、土地を売る者も多かった。
④「命がけで戦ったのに恩賞がない」── 御家人は幕府への不満を抱く。
徳政令(とくせいれい、1297年)
- 困窮した御家人を救うため、幕府は 永仁の徳政令を出した。
- 内容:御家人が手放した土地を、無償で取り戻させる。借金も帳消し。
- 結果:逆効果。誰も御家人にお金を貸さなくなり、御家人はかえって苦しんだ。
- 幕府の権威も低下。
幕府衰退への道
元寇と徳政令で幕府の威信は揺らぎ、御家人の不満は高まりました。半世紀後の 後醍醐天皇の挙兵と 足利尊氏の裏切りで、鎌倉幕府は1333年に滅亡します(次の単元)。
練習問題
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1回目:文永の役(1274年)
2回目:弘安の役(1281年)
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北条時宗(ほうじょうときむね)。第8代執権。
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① 集団戦法(日本の武士の一騎打ちとは異なる)
② 火薬兵器(てつはう)の使用
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困窮の理由:元寇は防衛戦で領土を得ていないため、御家人に恩賞として与える土地がなく、戦費だけが彼らの負担になった。
対応:1297年に永仁の徳政令を出し、御家人の借金帳消し・土地の取り戻しを命じたが、逆効果で誰もお金を貸さなくなった。
まとめ
- 13世紀、モンゴル帝国の フビライ・ハンが中国を支配して 元を建国。日本に従属を求めた。
- 執権 北条時宗がこれを拒否し、1274年文永の役・1281年弘安の役の2度の元寇が起きた。
- 2回とも、暴風雨(神風)もあって元軍は撤退・壊滅。
- しかし防衛戦だったため 領土が得られず、御家人は恩賞をもらえず困窮。
- 1297年の 永仁の徳政令は逆効果で、幕府の権威は低下。鎌倉幕府衰退の始まり。