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3つの革命は起きた国も時期も違いますが、共通しているのは「国王が思うままに決めていた政治」を壊し、「憲法や議会が政治を縛るしくみ」を生み出した点です。ここで生まれた権利章典・独立宣言・人権宣言という3つの文書が、約100年後の日本の憲法づくりのお手本になります。
絶対王政と市民の成長 ── なぜ革命が起きたのか
17〜18世紀のヨーロッパの多くの国では、絶対王政(ぜったいおうせい)という仕組みが当たり前でした。国王が「主権(統治する権力)」をひとりで握り、議会の同意なしに税金を決め、法律をつくり、戦争を始められる体制です。
一方でこの時期、貿易や工業で財産を増やした商工業者(しょうこうぎょうしゃ)、つまり後に「市民」と呼ばれる人々が力をつけていきます。彼らは「税金を取られるなら、その使い道や政治に自分たちの意見を反映させたい」と考え始めました。国王中心の政治と、力をつけた市民の不満がぶつかったところに、市民革命が起こります。
イギリスの市民革命 ── ピューリタン革命から名誉革命へ
ピューリタン革命(1642〜49)
イギリスでは、国王チャールズ1世が議会を無視して課税を続けたことに議会側が反発し、内戦(ピューリタン革命)が起こります。議会側の指導者クロムウェルが勝利し、1649年にチャールズ1世を処刑。イギリスは一時、国王のいない共和政になりました。
しかしクロムウェルの死後、政治は混乱し、王政復古(国王を呼び戻すこと)が行われます。ところが復古した国王も再び議会を無視する政治を行い、対立が再燃します。
名誉革命(1688〜89)と権利章典
ピューリタン革命が「国王を処刑して共和政にする」という激しい革命だったのに対し、名誉革命は「議会が国王を選び直す」という穏やかな方法で、同じ目的(国王の専制を止める)を達成した点がポイントです。
啓蒙思想 ── 革命を支えた3人の思想家
この3人の考え方は、それぞれアメリカ独立宣言(ロックの影響が強い)、アメリカ合衆国憲法(モンテスキューの三権分立を採用)、フランス革命(ルソーの人民主権が理念の中心)に直接反映されていきます。革命は感情だけで起きたのではなく、理論的な支柱を持って進んだ点が重要です。
アメリカ独立戦争(1775〜83)── 「代表なくして課税なし」
北アメリカ東部のイギリス植民地では、本国イギリスが戦費調達のために印紙法などの新しい税を次々と課しました。植民地の人々には議会に代表を送る権利がなかったため、「代表なくして課税なし」というスローガンで抗議が広がります。
対立は武力衝突に発展し、1775年にアメリカ独立戦争が始まりました。
戦争はワシントンが率いる植民地側が勝利し、1783年に独立が承認されます。ワシントンは初代大統領となり、1787年には合衆国憲法が制定されました。この憲法は、モンテスキューが説いた三権分立(立法・行政・司法の分離)を初めて国家の仕組みとして採用した点で画期的でした。
フランス革命(1789〜)── 人権宣言からナポレオンへ
革命の始まりと人権宣言
フランスでは、国王ルイ16世のもとで重税と財政危機が続き、身分制度(聖職者・貴族・平民の3身分)への不満が高まっていました。1789年、国王が身分別の議会「三部会」を招集しますが交渉は決裂。パリの民衆が武器を求めてバスチーユ牢獄を襲撃し、革命が本格化します。
その後、フランスは王政を廃止して共和政に移り、1793年にはルイ16世を処刑しますが、革命政府内部の対立や周辺国との戦争で国内は混乱していきます。
ナポレオンの登場
混乱の中から軍人ナポレオン・ボナパルトが台頭し、1804年に皇帝に即位します。ナポレオンは革命の理念を法律にまとめたナポレオン法典(私有財産の保護・法の下の平等などを定める)を整備し、ヨーロッパ各地を征服する中で革命の理念をヨーロッパ全体に広げる役割も果たしました。
- ナポレオンは法の下の平等など革命の理念を制度として定着させた。
- 一方で皇帝という地位に就いた点は、革命前の「国王中心」の体制に似た面もある。
- ナポレオンは1815年に最終的に敗れ、その後のウィーン会議でヨーロッパの秩序が立て直された。
市民革命と日本のつながり ── 100年後の明治日本へ
ここまで見てきた「憲法」「議会」「国民が主権を持つ国家(国民国家)」という考え方は、イギリス・アメリカ・フランスだけの話では終わりませんでした。19世紀を通じてヨーロッパ各国に広がり、約100年後の明治日本にも大きな影響を与えます。
- 大日本帝国憲法(1889)は、国民(臣民)の権利を定め、議会(帝国議会)を置く点で、市民革命が生んだ「憲法にもとづく政治」の考え方を取り入れている。
- 自由民権運動(明治10年代〜)で「国会を開け」「憲法をつくれ」と訴えた人々は、独立宣言・人権宣言が示した「国民が政治に参加する権利」を意識していた。
- 市民革命の「市民(しみん)」は、革命当時は主に財産を持つ商工業者や地主を指し、庶民全員・農民全員を指す言葉ではなかった。
- 例えばフランス人権宣言の後もしばらく、選挙権は一定の税金を納めた男性に限られていた。
- 「市民革命=全員が対等になった革命」ではなく、「国王の専制を崩し、財産を持つ市民が政治に参加できるようになった革命」と理解するのが正確。
この章でつまずきやすいところ
3つの国・3つの革命を続けて読むと、名前・年号・文書名がまざってしまいがちです。読み進める途中で生まれやすい迷いを、具体的にほぐしていきます。
名誉革命とピューリタン革命を同じ出来事だと思い込んでしまう
- つまずく場面:どちらも「イギリスで国王に反発した革命」なので、本文を読んでいるうちに1つの出来事として混ざってしまいます。「クロムウェル」と「権利章典」がどちらの話だったか、あとで思い出せなくなります。
- 克服のコツ:結果で区別しましょう。ピューリタン革命は国王を処刑して共和政にした激しい革命。名誉革命は議会が国王を選び直しただけの穏やかな革命(だから「無血」)。「処刑したのがピューリタン、選び直したのが名誉」と対で覚えると混同しません。
- ミニ例:本文のクロムウェルはピューリタン革命の指導者、権利章典は名誉革命の翌年(1689)に生まれた文書です。
独立宣言と人権宣言、どちらがどの国の文書かわからなくなる
- つまずく場面:両方とも「自由」「平等」という似た言葉が出てくるうえ、発表された年もどちらも1770〜80年代であるため、本文を読み終えたあとに「独立宣言はフランスだった気がする」と逆に記憶してしまいます。
- 克服のコツ:目的で区別します。独立宣言(1776・アメリカ)は「本国から独立する」ための宣言。人権宣言(1789・フランス)は「国内の身分制・絶対王政を壊す」ための宣言。「独立宣言=外に向けた宣言」「人権宣言=国内に向けた宣言」と方向で覚えると逆転しにくくなります。
- ミニ例:本文では独立宣言はジェファソンが起草、人権宣言はフランス国民議会が採択したと説明されています。
市民革命=みんなが平等になった革命だと読んでしまう
- つまずく場面:「自由・平等・国民主権」という言葉を読んで、そのまま「全員が対等な社会になった」と理解してしまい、後の時代に女性や労働者の権利運動が続く理由がわからなくなります。
- 克服のコツ:誰が政治に参加できたかに注目しましょう。市民革命の主役だった「市民」は、財産を持つ商工業者が中心。革命直後も、選挙権は税金を納めた男性に限られていました。「市民革命は第一段階、全員参加はもっと後の段階」と読みの順番を意識すると誤解しません。
- ミニ例:本文の警告ボックスにあるとおり、フランス人権宣言の後も選挙権は限定的でした。
練習問題
- 名誉革命
- 権利章典
- 独立宣言
- 人権宣言
- 啓蒙思想
- ナポレオン法典
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(1) 名誉革命(1688〜89):イギリス議会が国王ジェームズ2世の専制に反発し、ほとんど血を流さずに新しい国王を招いて王位につけた出来事。
(2) 権利章典(1689):議会の同意なしに国王が課税・立法・軍隊維持を行うことを禁止した文書。立憲君主制と議会政治の出発点。
(3) 独立宣言(1776):ジェファソンが起草し、アメリカの13植民地がイギリスからの独立を宣言した文書。
(4) 人権宣言(1789):フランス国民議会が採択。自由・平等・国民主権という近代市民社会の基本原理を打ち出した文書。
(5) 啓蒙思想:理性で社会を良くしようとする思想。ロック(社会契約説・抵抗権)、モンテスキュー(三権分立)、ルソー(人民主権)が代表的な思想家。
(6) ナポレオン法典:ナポレオンが整備した法典。私有財産の保護や法の下の平等など、革命の理念を制度として定着させた。
- フランス人権宣言
- 名誉革命
- ピューリタン革命の開始
- ナポレオンの皇帝即位
- アメリカ独立戦争の開始
- 権利章典の制定
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(3) → (2) → (6) → (5) → (1) → (4)
- (3) ピューリタン革命の開始 ── 1642
- (2) 名誉革命 ── 1688
- (6) 権利章典の制定 ── 1689
- (5) アメリカ独立戦争の開始 ── 1775
- (1) フランス人権宣言 ── 1789
- (4) ナポレオンの皇帝即位 ── 1804
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解答例:名誉革命は、議会が専制的な国王ジェームズ2世を退け、オランダから新しい国王・王妃を招いて王位につけるという形で行われ、大きな戦闘や処刑をともなわずに政権が交代したため「無血革命」「名誉革命」と呼ばれる。翌1689年に制定された権利章典は、議会の同意なしに国王が課税・法律の制定・軍隊の維持を行うことを禁止し、議会の権限を明確にした。これにより「国王も法の下にある」という原則が確立され、立憲君主制と議会政治の出発点となった。
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解答例:共通点は、どちらもロックなどの啓蒙思想の影響を受け、人間が生まれながらに自由・平等の権利を持つという考え方を明文化したことである。違いは目的にある。独立宣言(1776)は、本国イギリスの課税に対する不満から、13の植民地がイギリスからの独立を宣言するためのものだった。一方、人権宣言(1789)は、フランス国内の絶対王政と身分制度への不満から、自由・平等・国民主権という新しい政治の原理を国内に向けて示すためのものだった。独立宣言は「外に向けた独立の宣言」、人権宣言は「国内の体制を変える宣言」という違いがある。
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解答例:市民革命は「国王が思うままに決める政治」を否定し、「憲法にもとづき議会が政治に関わるしくみ」を生み出した。この考え方は19世紀のヨーロッパ各国に広がり、明治日本にも影響を与える。自由民権運動では、独立宣言や人権宣言が示した「国民が政治に参加する権利」を意識して、国会の開設や憲法の制定が求められた。その結果制定された大日本帝国憲法(1889)は、天皇の権限を強く残しつつも、国民(臣民)の権利を定め、議会(帝国議会)を置くという点で、市民革命が広めた「憲法にもとづく政治」のしくみを取り入れたものだった。
まとめ
- 絶対王政:国王が議会の同意なしに課税・立法を行う体制。商工業で力をつけた市民との対立が革命の背景に。
- イギリス:ピューリタン革命(1642〜49)でチャールズ1世を処刑 → 王政復古 → 名誉革命(1688〜89)で権利章典を制定。立憲君主制の出発点に。
- 啓蒙思想:ロック(社会契約説・抵抗権)、モンテスキュー(三権分立)、ルソー(人民主権)が革命の理論的支柱に。
- アメリカ:「代表なくして課税なし」→独立戦争(1775〜83)→独立宣言(1776)→合衆国憲法(1787、三権分立を採用)。
- フランス:バスチーユ牢獄襲撃 → 人権宣言(1789) → 国王処刑(1793)→ 混乱。
- ナポレオン:1804年皇帝即位。ナポレオン法典で革命の理念を制度化しつつ、ヨーロッパ征服。1815年に没落し、ウィーン会議へ。
- 「市民」=当時は主に財産を持つ商工業者を指し、庶民全員ではなかった点に注意。
- 市民革命が広めた「憲法・議会・国民国家」の考え方は、約100年後の明治日本の大日本帝国憲法・自由民権運動につながっていく。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
明治政府も「誓約」から始まった ── 五箇条の御誓文(1868)発展
独立宣言や人権宣言が「国のあり方を宣言する文書」だったのと同じように、明治新政府も1868年3月14日、天皇が神々に誓う形で「五箇条の御誓文」を発表しました。「広く会議を興し万機公論に決すべし」など、新しい政治の方針を示すこの誓文は、大日本帝国憲法(1889)ができるまで、事実上の基本方針として機能しました。
大日本帝国憲法は1889年2月11日に発布された発展
市民革命から約100年後の1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。国立公文書館の解説によると、この憲法は各省の職権や地方への権限配分、臣民(国民)の権利義務を定め、議会制度の導入を実現した点で、国家統治の基本原則を確立するものでした。市民革命が生んだ「憲法にもとづく政治」という考え方が、形を変えて日本にも取り入れられたことがわかります。
憲法の草案づくりにはドイツ人法律家の助言もあった発展
大日本帝国憲法の草案は、1887年6月から8月にかけて、伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎らが、政府の法律顧問だったドイツ人ロエスレルらの草案をもとに作成しました(神奈川県の夏島で審議されたため「夏島草案」と呼ばれる)。市民革命の理念は日本にも伝わりましたが、実際の制度づくりでは君主の権限を強く残すドイツ流の立憲君主制が手本にされた点が、イギリス・アメリカ・フランスとの違いです。
フランス人権宣言の「実物」は手彩色の銅版画として残っている発展
専修大学図書館は、1789〜92年にパリで出版された人権宣言の手彩色銅版画(41×54cm)を所蔵しています。この宣言は序文と17条からなり、自由・平等・国民主権・所有権の確立などの原則を定めたもので、日本では明治初期の自由民権運動にも影響を与えたとされています。
出典:専修大学図書館
