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国境の画定 ── 北海道・沖縄と近隣外交

江戸時代の日本には、今のようにはっきりした「国境線」がありませんでした。樺太(からふと)にも千島(ちしま)にも、和人とアイヌの人々、ロシア人が入り混じって暮らしていて、「ここから先は日本」という線はあいまいなままでよかったのです。ところが明治政府は、わずか10年ほどの間に清・朝鮮・ロシアと条約を結び、北海道と沖縄を国内に組み込んでいきます。「国境を条約で決める」こと自体が、近代国家の条件だったのです。この記事では、日清修好条規から樺太・千島交換条約、琉球処分まで、岩倉使節団の外交の続きとして、日本の国境がどう形になっていったかを見ていきます。

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国境の画定(1869〜1879)── 対外条約と国内編入 対外国境を条約で決める 国内に編入する 清 ── 日清修好条規 1871年、日本初の対等条約 朝鮮 ── 日朝修好条規 江華島事件(1875)を口実に 1876年、朝鮮を開国させた不平等条約 ロシア ── 樺太・千島交換条約 1875年8月、樺太はロシア領に 千島列島は全て日本領に 小笠原諸島 1876年、日本の領有を再確認 北海道 ── 開拓使の設置 1869年、開拓使を設置 屯田兵・札幌農学校(クラーク) アイヌの人々には同化政策 北海道旧土人保護法(1899) 2019年アイヌ施策推進法で先住民族と明記 沖縄 ── 琉球処分 琉球藩の設置(1872年) →琉球処分(1879年)で沖縄県に 国王・尚泰は東京へ移された 清との帰属対立は日清戦争で決着 左は「外国と条約で線を引く」、右は「日本の中に組み入れる」──同時進行の2つの作業
1869年から1879年にかけて、日本が清・朝鮮・ロシアと条約で国境を確定させた動きと、北海道・沖縄を国内に編入した動きの対比

左の列は「外国との間に条約で国境線を引く」作業、右の列は「北海道・沖縄という土地を日本の中に組み入れる」作業です。この2つが1869年から1879年までの10年間、同時に進んでいたことが分かります。

「国境を決める」ことは近代国家の条件

江戸時代、蝦夷地(北海道)の先には松前藩の支配地があり、樺太・千島にはアイヌの人々やロシア人が住んでいましたが、「ここまでが日本領」という明確な線は必要とされていませんでした。琉球王国も、日本(薩摩藩)と清の両方に貢物を送る「両属」という、あいまいな立場で存続していました。

しかし、欧米諸国と対等な「主権国家」として認められるには、領土の範囲を条約ではっきり決めることが不可欠でした。1871年の岩倉使節団の派遣と並行して、政府は清・朝鮮・ロシアとの条約づくり、そして北海道・沖縄の編入を急ぎます。

清との新しい関係 ── 日清修好条規(1871)

用語:日清修好条規(にっしん しゅうこう じょうき)
1871年、日本と清(中国)の間で結ばれた条約。相互に領事裁判権を認め合う対等な条約で、日本が欧米以外の国と結んだ最初の対等条約だった。

欧米諸国との条約(日米修好通商条約など)は、日本にとって不利な不平等条約でした。しかし清との条約は、双方が同じ内容を認め合う対等なものでした。日本はこのあと、朝鮮との条約では逆に不平等条約を押し付ける側に回ります。

朝鮮との関係 ── 江華島事件と日朝修好条規

用語:江華島事件(こうかとう じけん)
1875年、朝鮮沿岸を測量していた日本の軍艦・雲揚(うんよう)号が、江華島付近で朝鮮側の砲台と交戦した事件。日本はこれを口実に朝鮮に開国を迫った。
用語:日朝修好条規(にっちょう しゅうこう じょうき)
1876年、江華島事件をきっかけに結ばれた条約。朝鮮の開国・釜山など3港の開港を定めたが、朝鮮に日本の領事裁判権を認めさせる不平等条約だった。

1873年、朝鮮に武力で開国を迫るべきだという征韓論(せいかんろん)が政府内で強く主張され、西郷隆盛・板垣退助らが政変(征韓論政変)に敗れて政府を去りました。その2年後、江華島事件が起こり、日本は結局、武力を背景に朝鮮を開国させます。

ここで気づいてほしいのは、日本がペリーに開国させられた側から、今度は朝鮮を開国させる側に回ったという構図です。日清修好条規が対等だったのに対し、日朝修好条規は日本に有利な不平等条約でした。

ロシアとの国境 ── 樺太・千島交換条約(1875)

用語:樺太・千島交換条約(からふと・ちしま こうかん じょうやく)
1875年、日本とロシアの間で結ばれた条約。樺太全島をロシア領とし、その代わりに千島列島の全てを日本領とした。江戸時代以来あいまいだった北方の国境を、条約によってはっきり線引きした。

幕末の条約では樺太は日露両国人の混住地とされ、境界があいまいなままでした。政府はこれを解消するため、樺太での権益をロシアに譲り、その代わりに千島列島の全島を得るという交換に踏み切ります。「樺太をあきらめて千島を得た」と覚えると、方向を取り違えません。

小笠原諸島の領有(1876)

小笠原諸島は幕末に一時的にアメリカ・イギリスなどの船が寄港し、領有があいまいになっていましたが、1876年、政府は諸外国に通告して日本領であることを再確認させました。樺太・千島・小笠原と、日本列島の外周を条約と通告で確定していく作業が、ほぼ同じ時期に進んでいたことになります。

北海道の開拓とアイヌの人々

1869年、政府は蝦夷地を北海道と改称し、開拓のための役所「開拓使(かいたくし)」を設置しました。防衛と開拓を兼ねた屯田兵(とんでんへい)を各地に配置し、アメリカ式の農業技術を導入するため、札幌農学校を開校。教頭として招かれたアメリカ人クラークは、帰国の際に「Boys, be ambitious(少年よ大志を抱け)」の言葉を残したことで知られています。石炭を運ぶための鉄道も整備され、北海道は急速に開発が進みました。

アイヌの人々への同化政策
  • 開拓が進む一方、政府はアイヌの人々に対し、狩猟・漁労など独自の生業や風習を制限し、日本語教育を進める同化政策をとった。
  • 1899年には「北海道旧土人保護法」が制定されたが、アイヌ独自の文化・言語を尊重する内容ではなかった。
  • 2019年、「アイヌ施策推進法」が制定され、法律上初めてアイヌの人々が「先住民族」であると明記された(詳しくは「もっと知る」で紹介)。

沖縄 ── 琉球処分と沖縄県の設置

用語:琉球処分(りゅうきゅう しょぶん)
1879年、政府が軍・警察の力を背景に、それまで日本と清の両方に属していた琉球王国を解体して沖縄県を設置したこと。国王・尚泰(しょうたい)は東京へ移された。

琉球王国は、江戸時代から日本(薩摩藩)と清の両属という独特の立場にありました。明治政府はまず1872年に琉球藩を設置してこの王国を日本の一部として位置づけました。

用語:台湾出兵(たいわん しゅっぺい、1874年)
琉球の漂流民が台湾で殺害された事件を口実に、日本が台湾へ出兵したできごと。清は事実上の賠償金の支払いに応じ、これが日本にとって琉球は日本に属するという主張の根拠づけとなり、1879年の琉球処分につながった。

1871年、台風で漂流した琉球の漂流民が台湾に漂着し、現地の住民に殺害される事件が起こりました。日本政府はこの事件を口実に1874年に台湾出兵を行い、清に責任を問いました。清が事実上の賠償に応じたことで、日本は「琉球の人々を守ったのは日本」という立場を国際的に印象づけることに成功し、これが1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を置く根拠のひとつとなりました。これが琉球処分です。清はこの処置に強く抗議しましたが、帰属をめぐる対立は、この20年後に起こる日清戦争(1894〜95)の結果によって最終的に決着することになります。

この章でつまずきやすいところ

この単元は、似た名前の条約(日清修好条規・日朝修好条規)と、似た年号(1875・1876・1879)が集中して出てくるので混乱しやすいところです。読み進める途中で生まれる迷いを、具体的にほぐしていきます。

樺太・千島交換条約の「どちらがどちら」が逆になる

  • つまずく場面:「樺太・千島交換条約」という名前だけを覚えていると、どちらが日本領でどちらがロシア領か、テストの直前に不安になります。
  • 克服のコツ:「樺太をあきらめて、千島を得た」という一続きの動きで覚えましょう。樺太=ロシア領、千島列島全て=日本領です。「樺太(か)→交換(こ)→千島(ち)」の順で、日本が失ったものから先に思い出すと逆転しません。
  • ミニ例:本文の「樺太はロシア領、千島列島は全て日本領」という一文をそのまま覚えるのが一番確実です。

日朝修好条規も対等な条約だと誤解する

  • つまずく場面:直前に読んだ日清修好条規が「対等な条約」だったため、次に出てくる日朝修好条規も同じように対等だと思い込んでしまいます。
  • 克服のコツ:読みの手順で区別しましょう。日清修好条規の段落を読んだら「清=対等」と頭にメモし、日朝修好条規の段落に進んだら名前が似ていても「朝鮮=不平等(日本に領事裁判権)」と書き換えます。「日本がペリーにされたことを、朝鮮にした」と覚えると立場の違いが分かります。
  • ミニ例:本文では、日朝修好条規は「朝鮮に日本の領事裁判権を認めさせる不平等条約」と説明されています。

琉球処分と廃藩置県を同じ出来事だと思い込む

  • つまずく場面:「藩を廃止して県を置く」という言葉の響きが同じなので、1871年の廃藩置県(本州・四国・九州の藩)と、1879年の琉球処分を混同しがちです。
  • 克服のコツ:年号と対象で区別します。廃藩置県(1871年)は日本本土の藩、琉球処分(1879年)はそれより8年後、清との両属関係にあった琉球という別の対象です。琉球はまず1872年に「琉球藩」という特別な藩にされ、その7年後に処分された、という2段階になっている点も廃藩置県とは違います。
  • ミニ例:本文の「1872年に琉球藩を設置→1879年に琉球処分で沖縄県」という2段階の流れを、廃藩置県とは別の出来事として押さえましょう。

北海道の開拓とアイヌ政策の順序を取り違える

  • つまずく場面:「開拓使の設置」と「北海道旧土人保護法」が同じ段落の近くに出てくるため、どちらが先か、同時だったのかが曖昧になります。
  • 克服のコツ:年号を並べて30年の差を意識しましょう。開拓使の設置は1869年、北海道旧土人保護法は1899年で、その間に30年あります。開拓が先に進み、その後に同化政策が制度化された、という順番です。
  • ミニ例:本文の年号「1869年」「1899年」「2019年」の3つを時間の目印として押さえると、開拓・同化政策・現在の見直しの3段階が整理できます。

練習問題

問題1(用語)
次の用語の意味を簡潔に答えなさい。
  1. 日清修好条規
  2. 江華島事件
  3. 日朝修好条規
  4. 樺太・千島交換条約
  5. 琉球処分
  6. 開拓使
  7. アイヌ施策推進法
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(1) 日清修好条規(1871):日本と清が結んだ対等な条約。日本が欧米以外の国と結んだ最初の対等条約。

(2) 江華島事件(1875):日本の軍艦・雲揚号が朝鮮沿岸で朝鮮側の砲台と交戦した事件。日本が朝鮮に開国を迫る口実になった。

(3) 日朝修好条規(1876):江華島事件をきっかけに結ばれた条約。朝鮮を開国させたが、日本に領事裁判権を認めさせる不平等条約だった。

(4) 樺太・千島交換条約(1875):日本とロシアの条約。樺太はロシア領、千島列島の全てを日本領とした。

(5) 琉球処分(1879):政府が軍・警察を背景に琉球藩を廃止して沖縄県を設置したこと。国王・尚泰は東京へ移された。

(6) 開拓使(1869〜):北海道の開拓を進めるために設置された役所。屯田兵の配置や札幌農学校の設立などを行った。

(7) アイヌ施策推進法(2019):法律上初めてアイヌの人々を「先住民族」と明記した法律。

問題2(年代)
次の出来事を年代の古い順に並べなさい。
  1. 日朝修好条規
  2. 開拓使の設置
  3. 江華島事件
  4. 日清修好条規
  5. 樺太・千島交換条約
  6. 琉球処分
答えを見る

(2) → (4) → (5) → (3) → (1) → (6)

  • (2) 開拓使の設置 ── 1869
  • (4) 日清修好条規 ── 1871
  • (5) 樺太・千島交換条約 ── 1875年8月
  • (3) 江華島事件 ── 1875年9月
  • (1) 日朝修好条規 ── 1876
  • (6) 琉球処分 ── 1879
問題3(記述)
樺太・千島交換条約の内容を説明しなさい。
答えを見る

解答例:1875年、日本とロシアの間で結ばれた条約で、それまで両国人の混住地であいまいだった樺太をロシア領とし、その代わりに千島列島の全てを日本領とすることを定めた。これによって北方の国境が条約によって初めてはっきりと確定した。

問題4(記述)
日朝修好条規が「不平等条約」と言われる理由を、日清修好条規と対比しながら説明しなさい。
答えを見る

解答例:日清修好条規は日本と清が相互に領事裁判権を認め合う対等な条約だった。一方、日朝修好条規は、日本が江華島事件を口実に朝鮮に開国を迫って結ばせた条約で、朝鮮側にのみ日本の領事裁判権を認めさせる内容になっていた。つまり日本は、自国が欧米諸国から不平等条約を結ばされた立場から、今度は朝鮮に不平等条約を結ばせる立場に回ったのであり、この非対称性が「不平等条約」と呼ばれる理由である。

問題5(記述)
琉球処分がどのような経緯で行われ、その後の日清間の対立がどのように解消されたかを説明しなさい。
答えを見る

解答例:琉球王国は江戸時代から日本(薩摩藩)と清の両方に属する「両属」の立場にあった。明治政府は1872年にまず琉球藩を設置してこれを日本の一部として位置づけ、1879年には軍・警察の力を背景に琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。これを琉球処分と呼ぶ。国王・尚泰は東京へ移された。清はこの措置に強く抗議し、琉球の帰属をめぐる対立が続いたが、最終的には1894〜95年の日清戦争で日本が勝利したことにより、清は沖縄が日本領であることを認める形で決着した。

まとめ

  • 近代国家として認められるには国境を条約ではっきり決めることが必要だった。
  • 日清修好条規(1871):日本が欧米以外の国と結んだ最初の対等条約。
  • 江華島事件(1875)→日朝修好条規(1876):日本が朝鮮に不平等条約を結ばせた。日本が受けた不平等を朝鮮に課す構図。
  • 樺太・千島交換条約(1875):樺太はロシア領、千島列島は全て日本領に。
  • 小笠原諸島(1876):日本の領有を再確認。
  • 北海道:1869年に開拓使を設置、屯田兵・札幌農学校(クラーク)で開発。アイヌの人々には同化政策がとられ、1899年に北海道旧土人保護法。2019年のアイヌ施策推進法で「先住民族」と法律に明記。
  • 琉球処分(1879):琉球藩(1872)を廃止して沖縄県を設置。国王・尚泰は東京へ。清との帰属対立は日清戦争で決着。
  • 約10年の間に、対外的な国境確定(清・朝鮮・ロシア)と国内への編入(北海道・沖縄)が同時に進んだ。

もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)

※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。

樺太・千島交換条約が批准されたのは1875年8月発展

国立公文書館の記録によると、樺太・千島交換条約は1875年(明治8年)8月に批准されました。江戸時代以来あいまいだった北方の国境が、この条約で初めて明確な線として確定したことが分かります。

出典:国立公文書館「日本のあゆみ」

日朝修好条規は1876年3月に結ばれた発展

国立公文書館の記録では、日朝修好条規は1876年(明治9年)3月に結ばれたとされています。前年の江華島事件から半年ほどで条約締結にいたった、外交の速さが分かります。

出典:国立公文書館「日本のあゆみ」

琉球処分は1879年4月に行われた発展

国立公文書館の記録によると、琉球藩を廃止して沖縄県を設置する処置(琉球処分)は1879年(明治12年)4月に行われました。1872年の琉球藩設置からわずか7年後のことです。

出典:国立公文書館「日本のあゆみ」

「少年よ大志を抱け」のクラーク博士は札幌農学校の教頭発展

北海道開拓の一環として設立された札幌農学校で教頭を務めたアメリカ人ウィリアム・クラークは、8か月ほどの滞在の後、日本を去る際に「Boys, be ambitious(少年よ大志を抱け)」の言葉を残したとされています。北海道の開拓が、アメリカ式の農業技術を取り入れる形で進められたことを表すエピソードです。

出典:北広島市教育委員会

2019年、アイヌの人々は法律で初めて「先住民族」と明記された発展

1899年の北海道旧土人保護法から120年を経て、2019年に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(アイヌ施策推進法)が施行されました。内閣府によると、この法律は日本の法律で初めてアイヌの人々を「先住民族」と明記したものです。

出典:内閣府「アイヌ政策」