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主権者である天皇の下に内閣・帝国議会・裁判所が置かれ、国民は「臣民」として法律の範囲内の権利だけを持つ ── この上下の構造が明治憲法の骨組みです。選挙で選べたのは衆議院だけで、投票できたのは人口の約1.1%でした。
憲法を作る前の準備
1881年の国会開設の勅諭で「10年後に国会を開き、それまでに憲法を作る」と約束した政府は、すぐに準備を始めます。
伊藤博文のヨーロッパ調査(1882〜83)
1882年、伊藤博文(いとう ひろぶみ)がヨーロッパに送られ、約1年半、各国の憲法を調査しました。
- イギリス:議会の力が強すぎる。日本にはまだ早い。
- フランス:共和制(皇帝なし)。日本の天皇制と合わない。
- プロイセン:君主(皇帝)の権限が強く、議会は限定的。「天皇中心」の日本にぴったり。
伊藤はベルリンで グナイスト、ウィーンで シュタインに師事し、君主中心の立憲制の理論を学んだ。
枢密院の設置(1888)
帰国後、伊藤は 井上毅(いのうえ こわし)・伊東巳代治・金子堅太郎らと、横須賀の 夏島(なつしま)で憲法草案の作成を進めます。1888年、枢密院(すうみついん)=天皇の諮問(しもん=相談)機関を設置し、ここで憲法案を最終審議しました。
大日本帝国憲法の発布(1889年2月11日)
欽定憲法とは
大日本帝国憲法の中身
① 天皇主権 ── 主権者は天皇
第1条:「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国は、永遠に続く同じ家系の天皇が治める)。
第3条:「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(天皇は神聖で侵してはならない)。
①陸海軍の統帥(とうすい)権 ── 軍の最高司令官
②戦争・講和・条約締結の権限
③議会の 召集・解散の権限
④緊急時に法律に代わる 勅令(ちょくれい)を出す権限
⑤大臣・将軍・裁判官の任命権
② 帝国議会 ── 二院制
- 衆議院:選挙で選ばれた議員。任期4年。
- 貴族院:選挙ではなく、皇族・華族・天皇任命の議員で構成。任期は終身が中心。
選挙権の制限(1890年時点)
- 満 25歳以上の男子 で、直接国税を 15円以上納める者。
- 該当者は 全人口の約1.1%(地主・上流商工業者)。
- 女性には選挙権なし。
「国民の代表」とは言いますが、実際に投票できるのはごく少数の富裕層だけでした。
③ 国民の権利 ── 「臣民」の権利として
憲法には 「臣民の権利」として、以下が定められました(「臣民(しんみん)」=天皇に仕える民、つまり国民)。
- 居住・移転の自由
- 言論・出版・集会・結社の自由
- 信教(宗教を選ぶ)の自由
- 所有権の保障
- 裁判を受ける権利
- これらの権利はすべて 「法律の範囲内で」認められた。
- つまり、議会が法律で制限すれば 権利は縮められる。
- 実際に 治安警察法・治安維持法などで言論・結社の自由は大きく制限された。
- 戦後の日本国憲法は 「侵すことのできない永久の権利」とし、法律でも制限できないとした点が大きく違う。
④ 内閣・裁判所
- 内閣:天皇を補佐する。憲法に明文規定はなく、慣行的に存在。1885年、政府は江戸時代以来の太政官制(だじょうかんせい)を廃止して内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣は伊藤博文が務めた。憲法発布の4年前にあたり、行政の仕組みを近代化して憲法制定に備える準備のひとつだった。
- 裁判所:天皇の名のもとで裁判を行う。司法権の独立は 大津事件(1891)で確立。
大日本帝国憲法と日本国憲法の比較
| 大日本帝国憲法(1889) | 日本国憲法(1946) | |
|---|---|---|
| 制定の形 | 欽定憲法(天皇が定める) | 民定憲法(国民が定める) |
| 主権 | 天皇主権 | 国民主権 |
| 天皇 | 統治権の総攬者・神聖不可侵 | 日本国・国民統合の象徴 |
| 議会 | 帝国議会(貴族院+衆議院) | 国会(参議院+衆議院) |
| 国民の権利 | 臣民の権利(法律の範囲内) | 基本的人権(永久不可侵) |
| 軍隊 | 天皇が陸海軍を統帥(兵役義務あり) | 戦争放棄・戦力不保持(第9条) |
教育勅語(1890)── 国民道徳の指針
憲法(1889)と教育勅語(1890)が、近代日本の 「政治の枠組み」と「国民道徳」の両輪としてセットで作られたのが特徴です。
第1回衆議院議員総選挙と帝国議会(1890)
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙が実施されました。投票できたのは約45万人(人口の約1.1%)。自由党系・立憲改進党系の民権派が過半数を獲得し、政府(藩閥)と激しく対立する議会のスタートとなりました。
1890年11月、第1回帝国議会が開かれます。「予算を削れ」と言う民権派と「軍備拡張を進めたい」政府がぶつかり、議会は 毎年のように紛糾。それでも、議会で予算を決めるという民主的な仕組みが動き始めたことは、日本政治史の大きな前進でした。
立憲国家の意味 ── 不平等条約への布石
大日本帝国憲法を作った最大の 外向きの目的は、欧米から「文明国」と認められることでした。
- 当時の欧米は「憲法と議会のある国=近代国家」と見なしていた。
- これがないと 不平等条約を改正できない。
- 1894年の領事裁判権撤廃(陸奥宗光)、1911年の関税自主権回復(小村寿太郎)── これらが実現したのは、日本が憲法を持つ立憲国家として認められたからこそ。
この章でつまずきやすいところ
大日本帝国憲法は1889年に発布された日本初の近代憲法。本文を読み進めるうちに「主権はだれ?」「権利はあるの?ないの?」と混乱しやすいので、迷いがちなポイントを4つに絞って整理します。
「臣民の権利」が書いてあるから日本国憲法と同じだと思い込んでしまう
- つまずく場面:本文に「居住・移転の自由」「言論・出版の自由」「信教の自由」と並んでいるのを見て、戦後の憲法と同じく国民の人権が守られていたと早合点する場面。
- 克服のコツ:見分け方は「法律ノ範囲内ニ於テ」の一語があるかどうか。明治憲法の権利は法律で制限できる枠付きの権利で、日本国憲法の「侵すことのできない永久の権利」とは保障の強さが違うと整理する。
- ミニ例:言論の自由は明治憲法でも書かれていたが、後に治安維持法(1925年)という法律で思想や言論が大きく制限された。法律で縮められた点が日本国憲法との違い。
天皇が政治の全部を直接動かしていたと思い込んでしまう
- つまずく場面:第1条で天皇が「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と統治者として位置づけられ、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされているのを読んで、天皇がすべての政策をひとりで決めていたかのようにイメージしてしまう場面。
- 克服のコツ:制度上の主権と実際の政治運営を分けて考えるのがコツ。条文では天皇が統治権を持つが、運営は内閣・帝国議会・裁判所が天皇の名のもとで担い、新規の予算や法律には議会の同意(協賛)が必要だった、と因果関係で整理する。
- ミニ例:1890年からの帝国議会では、民権派が「予算を削れ」と主張し政府と毎年のように紛糾した。議会の協賛なしには新規予算を通せない仕組みになっていた(ただし衆議院が否決しても政府は前年度予算を執行できた)ため、議会と政府の対立が予算審議の場で生まれていた。
プロイセン憲法を選んだ理由を「ドイツが強かったから」と思い込んでしまう
- つまずく場面:本文の「伊藤博文がヨーロッパで憲法調査→プロイセン憲法採用」という流れを読み、軍事大国だからモデルにした、と単純化して覚えてしまう場面。
- 克服のコツ:判断軸は「天皇中心の国家体制と合うかどうか」。イギリスは議会の力が強すぎ、フランスは皇帝のいない共和制で日本の天皇制と合わない。プロイセンは君主の権限が強く議会が限定的という構造が、めざす体制に合った、という因果でとらえる。
- ミニ例:伊藤博文はベルリンやウィーンでドイツの法学者たちに学び、君主中心の立憲制の理論を身につけてから草案づくりに入った。
「帝国議会ができた=民主主義が完成した」と思い込んでしまう
- つまずく場面:1890年に第1回帝国議会・第1回衆議院議員総選挙が行われた、という記述を読んで、国民全員が政治に参加できる時代になった、と勢いで読み流してしまう場面。
- 克服のコツ:見分け方は有権者の条件と議会の構成。投票できたのは満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者だけで、全人口の約1.1%。女性に選挙権はなく、貴族院は皇族・華族や勅選議員で構成され選挙で選ばれなかった点でも、民主主義としては限界があったと位置関係で整理する。
- ミニ例:1890年の第1回衆議院議員総選挙の有権者は約45万人。男子普通選挙は1925年(実施は1928年)、男女の普通選挙は1945年の法改正(実施は1946年)まで待つことになる。
練習問題
- 大日本帝国憲法
- 欽定憲法
- 伊藤博文
- 帝国議会
- 臣民の権利
- 教育勅語
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(1) 大日本帝国憲法(1889):日本最初の近代憲法。明治憲法とも呼ばれる。天皇主権を基本とし、プロイセン憲法をモデルに作られた。
(2) 欽定憲法:君主が定めて国民にあたえる形の憲法。日本の明治憲法やプロイセン憲法がこの形。対義語は民定憲法。
(3) 伊藤博文:長州藩出身の政治家。ヨーロッパで憲法を調査し、明治憲法草案を作成。初代内閣総理大臣(1885)。
(4) 帝国議会:明治憲法のもとで設置された立法機関。貴族院と衆議院の二院制で、1890年に第1回が開かれた。
(5) 臣民の権利:明治憲法で国民に認められた権利。居住の自由・言論の自由などが定められたが、いずれも「法律の範囲内」で認められたもので、法律によって制限できた。
(6) 教育勅語(1890):教育の基本方針を示す勅語。儒教的な家族道徳と天皇への忠誠を結びつけた内容で、戦前の学校教育の中核となった。
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解答例:イギリスの立憲制は議会の権限が強すぎ、フランスは皇帝のいない共和制で、いずれも天皇を中心とする日本にはなじみにくかった。プロイセン(ドイツ)の憲法は、君主(皇帝)に強い権限を与えながら議会の役割を限定する構造で、天皇を主権者とする日本の体制と合うと判断された。そのため伊藤はプロイセンに長く滞在してグナイストやシュタインから君主中心の立憲制の理論を学び、日本の憲法のモデルとした。
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解答例:第一に主権の所在が異なる。大日本帝国憲法では天皇が主権者で「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされたのに対し、日本国憲法では国民が主権者で、天皇は日本国・国民統合の象徴とされた。第二に国民の権利の保障の仕方が異なる。明治憲法では「臣民の権利」とされ、いずれも「法律の範囲内」で認められたため、法律によって制限することができた。これに対し日本国憲法では「侵すことのできない永久の権利」として基本的人権を保障し、法律によっても制限できない強さを持たせている。
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解答例:第1回総選挙の選挙権は、満25歳以上の男子で、直接国税を15円以上納める者にだけ与えられた。当時15円は地主や上流商工業者でなければ届かない高額な納税基準であり、女性には初めから選挙権が認められなかった。このため有権者は全人口の約1.1%にとどまり、限られた富裕層の男性だけが投票できる仕組みになっていた。普通選挙が実現するのは1925年の男子普通選挙法、男女の普通選挙が実現するのは1945年の戦後改革を待つことになる。
まとめ
- 1882〜83、伊藤博文がヨーロッパで憲法調査 → プロイセン憲法を選択(君主中心で天皇制と相性がよい)。
- 1888、枢密院を設置して最終審議。1889年2月11日、大日本帝国憲法発布。
- 形式は 欽定憲法(天皇が定めて国民にあたえる)。アジア初の本格的近代憲法。
- 主な特徴:天皇主権、帝国議会(貴族院+衆議院)、臣民の権利は法律の範囲内、天皇が陸海軍を統帥。
- 1890年に 教育勅語発布で「政治+道徳」の両輪が完成。
- 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙。有権者は人口の約1.1%(高額納税の男子のみ)。11月、第1回帝国議会開会。
- 立憲国家になったことで 不平等条約改正への扉が開く(1894領事裁判権撤廃、1911関税自主権回復)。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
明治憲法の「本物」は今も公文書館に残っている発展
1889年に発布された大日本帝国憲法の御署名原本(天皇の署名「御名」と印「御璽」が入った公布の原本)は、現在も国立公文書館に保管されています。デジタルアーカイブで誰でも実物の画像を見ることができ、教科書の文章が実在の歴史資料に基づいていることを確かめられます。
司法権の独立を守った大津事件(1891年)発展
明治憲法の発布から2年後の1891年、来日中のロシア皇太子が警察官に切りつけられる大津事件が起きました。政府は犯人を死刑にするよう圧力をかけましたが、大審院長(今の最高裁判所長官にあたる)の児島惟謙はこれを退け、法律どおりの判決を導いて司法権の独立を守った人物として知られています。
女性が投票できるようになったのは戦後から発展
明治憲法のもとでの選挙は高額納税の男子だけで、女性に選挙権はありませんでした。女性が初めて選挙権・被選挙権を得たのは、戦後の1945年に衆議院議員選挙法が改正されたときで、このとき選挙権の年齢も満25歳以上から満20歳以上へ引き下げられました。
2025年は女性参政権から80年の節目時事
日本で女性参政権が実現してから2025年で80年を迎えました。総務省は、国民の参政権の歩みをふり返る節目としてこの年を位置づけており、明治憲法の制限選挙から戦後の普通選挙まで、参政権がどう広がってきたかを学ぶよい機会になっています。
今の憲法は「国民投票」で変える仕組みになっている時事
天皇が定めて国民にあたえた明治憲法(欽定憲法)と違い、現在の日本国憲法は国民が主権者です。憲法を改正するには、衆議院・参議院それぞれの総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、最後に国民投票で過半数の賛成を得る必要があると、第96条で定められています。
