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上の国際連盟を中心に、左がヨーロッパを担うベルサイユ体制、右がアジア・太平洋を担うワシントン体制です。日本は連盟の常任理事国という地位を得ながら、ワシントン体制では日英同盟の廃棄・山東省権益の返還という譲歩も引き受けています。
パリ講和会議とベルサイユ条約 ── ヨーロッパの戦後処理
前の記事で見たロシア革命から2年後の1919年、第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれます。アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条」には、秘密外交の廃止や軍備縮小とともに、民族自決(それぞれの民族が自分たちの意思で国のあり方を決める権利)の原則が含まれていました。ただし、この民族自決が実際に適用されたのは主にヨーロッパの旧オーストリア・旧ロシア領で、アジアの植民地には適用されませんでした。この違いが、のちのアジアの人々の失望と民族運動につながっていきます。
日本と山東省問題 ── 継承と反発
ベルサイユ条約では、ドイツが中国・山東省に持っていた権益が、中国にではなく日本に継承されることが決まりました。前の記事で見た二十一か条要求(1915)の延長線上にある決定です。中国側は強く反発しましたが、条約はそのまま成立しました。
日本はまた、国際連盟の規約に人種差別の撤廃を盛り込むよう提案しましたが、欧米諸国の反対で採択されませんでした。ヨーロッパ中心の戦後秩序の中で、日本の立場は「戦勝国だが対等ではない」という微妙なものでした。
国際連盟(1920)── 世界初の国際平和機構
常任理事国という地位は、日本が国際社会の中心的な一員として認められたことを示しています。しかし、この国際連盟には最初から大きな弱点がありました。
- 提唱国であるはずのアメリカが不参加(議会上院が反対したため)。
- 決議には全会一致が必要で、1国でも反対すれば決められない。
- 違反国に対する武力制裁の手段を持たない(経済制裁のみ)。
これらの弱点は、1930年代に日本やドイツが連盟を脱退していく場面で、そのまま連盟の限界として表面化することになります。
ワシントン会議(1921〜22)── アジア・太平洋のもう一つの体制
海軍軍縮条約 ── 主力艦保有比 米5:英5:日3
1922年2月6日調印。日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5か国が、主力艦(戦艦など)の保有トン数の比率を5:5:3:1.67:1.67と定めました。日本はアメリカ・イギリスの6割の主力艦しか持てないことになります。
四か国条約 ── 日英同盟の終わり
1921年12月13日、日本・アメリカ・イギリス・フランスが調印。太平洋諸島における各国の権利の相互尊重と、紛争の平和的解決を約束しました。そして、この四か国条約の締結と同時に、日英同盟は廃棄されました。日露戦争・第一次世界大戦を通じて日本の外交を支えてきた同盟が、ここで姿を消したのです。
九か国条約 ── 中国の主権尊重
1922年2月6日調印。日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアなど9か国が、中国の主権・独立の尊重と、中国における各国の商工業上の機会均等を約束しました。これにともない、日本はベルサイユ条約で得た山東省の権益を中国に返還することになります。
協調外交の時代 ── 幣原喜重郎とロンドン海軍軍縮会議
ワシントン会議以降、1920年代の日本外交は、外相幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が代表するように、列強との協調・軍縮を重視する路線が主流になります。1930年にはロンドン海軍軍縮会議が開かれ、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)についても保有量の制限が定められました。この協調外交の路線は、1930年代に満州事変が起きると大きく転換していきます。
「戦争違法化」の流れ ── 不戦条約(1928)
国際連盟による集団安全保障、ワシントン体制による軍縮、そして不戦条約による戦争そのものの否定。1920年代は、戦争を制度的に抑え込もうとする国際協調の時代でした。しかし、この協調の枠組みは、1929年に始まる世界恐慌をきっかけに大きく揺らいでいきます。
この章でつまずきやすいところ
この記事には似た名前の組織・条約がいくつも出てきます。読み進める途中で生まれる混同を、具体的にほぐしていきます。
国際連盟と国際連合を混同してしまう
- つまずく場面:「国際連盟」という名前が、今の「国際連合(国連)」とよく似ているため、同じ組織だと思い込んでしまいます。
- 克服のコツ:3つの違いで区別します。国際連盟はアメリカ不参加・全会一致制・武力制裁なし。国際連合はアメリカも参加し、多数決の仕組みや軍事的措置の手段を持っています。この3点セットで覚えると混同しません。
- ミニ例:国際連盟の本部はスイスのジュネーブ、国際連合の本部はアメリカのニューヨーク。設立年も国際連盟は1920年、国際連合は1945年で四半世紀違います。
ベルサイユ条約とワシントン会議の担当地域を混同してしまう
- つまずく場面:ベルサイユ条約とワシントン会議がどちらも同じ「第一次世界大戦後の戦後処理」として出てくるため、内容が混ざって記憶されてしまいます。
- 克服のコツ:地域で分けます。ベルサイユ条約はヨーロッパ(ドイツの処理が中心)、ワシントン会議はアジア・太平洋(日本・中国が関わる問題が中心)です。「ヨーロッパはベルサイユ、アジアはワシントン」の対で覚えます。
- ミニ例:山東省問題は、ベルサイユ条約で日本への継承が決まり、ワシントン会議の九か国条約で中国への返還が決まるという、両方の体制をつなぐ事例です。
日英同盟がいつ消えたかを取り違えてしまう
- つまずく場面:日英同盟は日露戦争の頃から何度も登場するため、「なくなった」という感覚がなく、いつまで続いていたのか曖昧なまま覚えてしまいます。
- 克服のコツ:終わりの合図を覚えます。日英同盟が消えたのは1921年、ワシントン会議の四か国条約が結ばれたときです。四か国条約という新しい枠組みに置き換えられる形で廃棄されました。
- ミニ例:第一次世界大戦で日本が参戦した口実も日英同盟でした。その同盟が、大戦後のワシントン会議で終わりを迎えたという流れです。
「常任理事国なのに脱退した」という流れがうまくつながらない
- つまずく場面:「日本は常任理事国だった」という文と、後で習う「日本は国際連盟を脱退した」という話が、別の話のように感じられてしまいます。
- 克服のコツ:常任理事国であることと脱退することは矛盾しません。常任理事国は「発足時からの主要メンバー」という地位で、脱退はそのメンバーが自ら抜けるという別の出来事です。「1920年に主要メンバーとして参加→後年、自ら抜ける」という時間の流れで押さえます。
- ミニ例:国際連盟を脱退するのは満州事変(1931)の後の1933年。この記事の時点(1920年代)では、日本はまだ常任理事国として国際協調の中心にいました。
練習問題
- パリ講和会議
- ベルサイユ条約
- 国際連盟
- ワシントン会議
- 四か国条約
- 九か国条約
- 不戦条約
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(1) パリ講和会議(1919):第一次世界大戦の講和会議。ウィルソンの十四か条・民族自決の原則が提示された。
(2) ベルサイユ条約(1919):パリ講和会議で結ばれた対独講和条約。独に巨額賠償金・全植民地放棄・軍備制限を課した。
(3) 国際連盟(1920):世界初の国際平和機構。本部ジュネーブ。日本は常任理事国。アメリカは不参加。
(4) ワシントン会議(1921〜22):アジア・太平洋の戦後秩序を決めた国際会議。海軍軍縮条約・四か国条約・九か国条約を締結。
(5) 四か国条約(1921):日米英仏が調印。太平洋諸島に関する権利尊重と紛争の平和的解決を約束。締結により日英同盟が廃棄された。
(6) 九か国条約(1922):日英米仏伊など9か国が調印。中国の主権・独立の尊重と商工業上の機会均等を約束。
(7) 不戦条約(1928):国家の政策の手段としての戦争放棄を定めた条約。「戦争違法化」の流れを進めた。
- 不戦条約の調印
- 国際連盟の発足
- ワシントン会議の開催
- パリ講和会議の開催
- 国際連盟からの脱退
- 海軍軍縮条約の調印
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(4) → (2) → (3) → (6) → (1) → (5)
- (4) パリ講和会議の開催 ── 1919
- (2) 国際連盟の発足 ── 1920
- (3) ワシントン会議の開催 ── 1921〜22
- (6) 海軍軍縮条約の調印 ── 1922
- (1) 不戦条約の調印 ── 1928
- (5) 国際連盟からの脱退 ── 1933
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解答例:1つ目は、提唱国であるアメリカが議会上院の反対で参加しなかったこと。2つ目は、決議に全会一致が必要で、1国でも反対すれば決定できなかったこと。3つ目は、規約違反国に対して経済制裁しかできず、武力制裁の手段を持たなかったこと。これらの弱点は、1930年代に日本やドイツが連盟を脱退していく際に、連盟が実効的な対応をとれなかった要因になった。
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解答例:1921年、ワシントン会議で日本・アメリカ・イギリス・フランスの四か国条約が結ばれ、太平洋諸島に関する各国の権利の尊重と紛争の平和的解決が約束された。この四か国条約の締結と同時に、日露戦争以来日本の外交を支えてきた日英同盟は廃棄された。これは、日本の外交が特定の1国との同盟に頼る形から、複数国が参加する多国間の枠組みで安全を保つ形へ移ったことを意味する。
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解答例:ベルサイユ条約は、ドイツに対して巨額の賠償金を課し、すべての海外植民地を放棄させ、陸軍・海軍の軍備も厳しく制限した。この過酷な内容に対するドイツ国民の不満は根強く残り、後にヒトラーとナチ党が「ベルサイユ条約の不当さ」を訴えて支持を広げる際の土壌の一つとなった。
まとめ
- パリ講和会議(1919):ウィルソンの十四か条・民族自決の原則(主にヨーロッパに適用)。
- ベルサイユ条約:独に巨額賠償金・全植民地放棄・軍備制限 → 独国民の不満(ナチス台頭の伏線)。
- 日本は山東省の旧ドイツ権益を継承 → 中国が反発。
- 国際連盟(1920):世界初の国際平和機構、本部ジュネーブ、日本は常任理事国、新渡戸稲造が事務次長。
- 国際連盟の弱点:米不参加・全会一致・武力制裁なし。
- ワシントン会議(1921〜22):海軍軍縮条約(米5:英5:日3)・四か国条約(日英同盟廃棄)・九か国条約(山東省権益を中国へ返還)。
- 協調外交(幣原喜重郎)・ロンドン海軍軍縮会議(1930)。
- 不戦条約(1928)で、戦争そのものを違法化する流れがさらに進む。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
四か国条約の締結で日英同盟は廃棄された発展
国立公文書館の資料によると、1921年12月13日に日本・アメリカ・イギリス・フランスが四か国条約に調印し、1922年8月5日に批准、1923年8月17日に公布されました。正式名称は「太平洋方面に於ける島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約」で、太平洋諸島に関する各国の権利の尊重と紛争の平和的解決を定めています。この条約の締結によって、日英同盟は廃棄されました。
主力艦の保有比率は米5:英5:日3:仏1.67:伊1.67だった発展
1922年2月6日、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5か国が海軍軍縮条約に調印しました。国立公文書館の資料によると、各国が保有する主力艦の総トン数の比率は5:5:3:1.67:1.67と定められています。同じ会議で調印された九か国条約では、中国の主権・独立の尊重と、中国における各国の商工業上の機会均等が規定されました。
不戦条約の「人民の名において」が日本国内で論争を呼んだ発展
1928年8月27日にパリで調印された不戦条約(正式名称「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、国家の政策の手段としての戦争放棄を定めました。国立公文書館の資料によると、日本では条約第1条の「人民の名において」という文言が天皇の統治大権に反するのではないかとの議論が起こり、当時の田中義一内閣はこの文言が日本には適用されないと宣言した上で批准しています。
常任理事国だった日本は、12年後に自ら脱退を通告した発展
国立公文書館の資料によると、1920年に創設された国際連盟の常任理事国だった日本は、満州事変を契機に脱退することになります。1933年2月24日の総会では、中国の統治権を認め日本軍の撤退を求める報告案が賛成42、反対1、棄権1で採択され、反対票を投じた松岡洋右ら日本代表団は議場を退場、3月27日に正式に脱退を通告しました。この記事で見た「常任理事国」という地位から、わずか十数年での転換です。
新渡戸稲造は事務次長を退いた後、5000円札の顔になった発展
国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造は、後年、日本銀行券の五千円券の肖像に採用されました。日本銀行の資料によると、この五千円券は昭和59(1984)年11月1日に発行が始まり、平成19(2007)年4月2日に発行が停止されています。国際協調の舞台に立った人物が、戦後長く日本のお金の顔になっていたことになります。
出典:日本銀行
