満州事変と政党政治の終わり を解く・整理する5ステップ
各ステップをクリックすると詳しい説明と例が開きます。
ステップ 1:張作霖爆殺事件を「処罰なしの前例」として押さえる
1928年6月、関東軍の河本大作大佐らが満州の軍閥指導者・張作霖の乗る列車を爆破した張作霖爆殺事件が起きます。日本政府はこれを「満州某重大事件」として真相を公表せず、実行者も処罰しませんでした。この「軍が勝手に動いても罰せられない」という前例が、3年後の柳条湖事件を後押しする土台になったと理解します。
ステップ 2:柳条湖事件と満州事変を「政府の速さ」と「軍の無視」で整理する
1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し「中国軍の仕業」と発表しました。第2次若槻礼次郎内閣は3日後に「事変」認定、6日後に不拡大方針を発表しましたが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、半年で満州全域を占領しました。「政府は反応したが、軍が無視した」という構図で覚えます。
ステップ 3:満州国建国の「看板」と「実権」のギャップを見る
1932年3月、関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀を執政に立てて満州国の建国を宣言させました。「五族協和」という理念を掲げましたが、実際の政治・軍事の実権は関東軍と日本人官僚が握り、国際社会もこれを独立国として認めませんでした。看板の理念と実態のずれを区別します。
ステップ 4:政党内閣の系譜を並べ、五・一五事件で断絶することを確認する
1924年の加藤高明から始まり、若槻礼次郎・田中義一・浜口雄幸・若槻礼次郎(再任)・犬養毅と8年続いた政党内閣は、1932年5月15日の五・一五事件で海軍青年将校が犬養毅を暗殺したことで断絶します。以後は元海軍大将・斎藤実による挙国一致内閣が組織されました。
ステップ 5:国際連盟脱退を「通告」と「発効」に分け、二・二六事件までつなげる
リットン報告書が賛成42・反対1・棄権1で採択されたことを受け、日本は1933年3月27日に脱退を通告しました。ただし規約上、発効は2年後の1935年です。その後1936年2月26日、陸軍青年将校が高橋是清蔵相らを殺害する二・二六事件が起き、軍部大臣現役武官制の復活で軍部の政治支配が決定的になりました。
これだけは覚える
「張作霖爆殺(前例)→柳条湖事件・満州事変→満州国建国→五・一五事件(政党内閣の終わり)→国際連盟脱退→二・二六事件(軍部支配の確立)」の一本道で整理。五・一五と二・二六は実行部隊(海軍か陸軍か)と結果(政党内閣の終わりか、軍部支配の確立か)のセットで覚えます。
よくあるつまずき
柳条湖事件と盧溝橋事件を混同する、張作霖爆殺事件と柳条湖事件を同じ事件だと思い込む、国際連盟脱退の「通告」で全て終わったと考える、の3つが頻出ミス。脱退の効力(発効)は通告の2年後である点に注意しましょう。
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出典・最終更新
- 出典基盤:教科書(社会)の核となる手順と概念データに基づく整理。
- 編集方針:教科書頻出の解き方・コツを、段階的なステップに分け、つまずきポイントと核となるルールを併記しています。
- 最終更新:2026-08-14
