図でつかむ
1928年の張作霖爆殺事件は「満州某重大事件」として真相が公表されず、実行者も処罰されませんでした。この「軍が勝手に動いても罰せられない」という前例が、3年後の柳条湖事件をさらに大がかりな形で引き起こす土台になります。
満州事変の前史 ── 張作霖爆殺事件(1928)という前触れ
日本は日露戦争の勝利で、満州(中国東北部)の南満州鉄道(満鉄)とその沿線の権益を得ていました。1920年代の日本では、この権益を「満蒙は日本の生命線」(満州・蒙古は日本の存続に欠かせない土地だ)とする世論が広がっていきます。
この事件のポイントは、関東軍が政府の指示なしに軍事行動を起こし、しかもそれが処罰されなかったことです。「鉄道を爆破し、それを既成事実として使う」という手口も、「勝手に動いても大きな咎めはない」という前例も、この時点でできあがっていました。折しも世界恐慌の余波で日本は昭和恐慌(前の記事でくわしく見た内容)に沈み込み、「満州に活路を」という空気がさらに強まっていきます。
柳条湖事件と満州事変(1931) ── 軍が政府の統制を外れた最初の事例
ここで注目したいのは、政府の対応の速さです。国立公文書館の記録によれば、事件発生からわずか3日後(9月21日)に内閣は「事変」認定を行い、6日後(9月24日)には領土的欲望を否定する不拡大方針を発表しています。政府はけっして無反応だったわけではありません。それでも関東軍はこの方針を無視して戦線を広げ続け、日本政府は後追いで承認するしかありませんでした。
- 1928年:張作霖の列車を爆破 → 関東軍の独断行動 → 処罰なし
- 1931年:満鉄の線路を爆破 → 「中国軍の仕業」と発表 → 関東軍の独断行動 → 政府も止められず
- 3年前に処罰されなかった前例が、より大規模な独断専行を後押しした。これが「軍が政府の統制を外れた最初の決定的事例」と呼ばれる満州事変の重みである。
満州国の建国(1932) ── 「五族協和」の看板と関東軍の実権
「五族協和」という理念自体は聞こえがよいものでしたが、実権を関東軍が握っている以上、それは看板にすぎませんでした。国際社会は、この満州国を独立国として認めませんでした。
政党内閣の終わり ── 五・一五事件(1932)と国際連盟脱退(1933)
8年間続いた政党内閣の系譜
満州事変が起きた1931年、日本の政党内閣はすでに7年目を迎えていました。1924年の第二次護憲運動をきっかけに始まった政党内閣の時代は、次のように続いていました。
①1924 加藤高明(護憲三派)
②1926 若槻礼次郎
③1927 田中義一(立憲政友会)
④1929 浜口雄幸(立憲民政党)
⑤1931.4 若槻礼次郎(再任)
⑥1931.12 犬養毅(立憲政友会)
⑦1932.5.15 暗殺により政党内閣が断絶
五・一五事件(1932.5.15)
国際連盟脱退(1933.3)
反対したのは日本1か国だけで、賛成した42か国の中にはこれまで日本と協調してきたイギリス・フランス・アメリカ(連盟には未加盟だが)も含まれていました。「通告してすぐ抜けられる」わけではないという手続きの重みも、この出来事の見落としやすいポイントです。
二・二六事件(1936) ── 軍部の政治支配が決定的になる
国立公文書館に残る、戒厳令施行を決めた閣議書には、殺害された高橋是清蔵相の決裁欄が空欄のまま残されています。当時の混乱を物語る記録です。
事件後、軍部は「軍部大臣現役武官制」を復活させました。陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないという制度で、これにより軍が大臣を出さなければ内閣が組閣できない状況が生まれます。軍が事実上、政府の存続を左右する体制になりました。
- 五・一五事件(1932・海軍):犬養毅暗殺 → 政党内閣の時代が終わる
- 二・二六事件(1936・陸軍):高橋是清ら殺害 → 軍部の政治支配が決定的になる
- 「政党内閣の終わり」が先、「軍部支配の確立」がその4年後、という2段階で押さえるのがコツ。
この章でつまずきやすいところ
似た響きの「事件」「事変」が短い期間に集中して登場するのがこの単元の難しさです。とくに場所と実行部隊を取り違えやすいので、つまずきやすい場面を先に押さえておきましょう。
柳条湖事件と盧溝橋事件を取り違えてしまう(最頻出)
- つまずく場面:どちらも「鉄道・橋のそばで日本軍が絡む事件」というイメージが似ているため、年号や場所を覚えていても、テストで名前を入れ替えてしまいがちです。
- 克服のコツ:場所と年号をセットで覚えます。柳条湖事件は奉天(満州)・1931年・満州事変の発端。盧溝橋事件は北京郊外・1937年・日中戦争の発端(次の次の記事で扱います)。「満州は柳条湖、北京は盧溝橋」と場所で区別すると混同しません。
- ミニ例:本文の柳条湖事件は南満州鉄道の線路爆破。舞台はあくまで満州(中国東北部)です。
五・一五事件と二・二六事件を取り違えてしまう
- つまずく場面:どちらも「青年将校」「暗殺・襲撃」という共通点があり、誰が殺されたか、何が変わったかが本文を読んでいるうちに混ざってしまいます。
- 克服のコツ:実行部隊と結果で区別します。五・一五=海軍・犬養毅暗殺・政党内閣の終わり(1932)、二・二六=陸軍・高橋是清ら殺害・軍部支配の確立(1936)。「政党政治が終わる」のが先、「軍部が支配する」のがあと、という順番で読むと迷いません。
- ミニ例:本文では、二・二六事件の後に軍部大臣現役武官制が復活し、軍が組閣を左右する体制になったと説明されています。
国際連盟「脱退」を通告した瞬間に効力が発生したと思い込んでしまう
- つまずく場面:「1933年に国際連盟を脱退した」という一文だけを覚えると、通告と同時にすべてが終わったと考えてしまい、「発効」という手続き上の言葉が出てきたときに意味がわからなくなります。
- 克服のコツ:通告と発効を分けて読みます。1933年3月27日に脱退を「通告」したが、国際連盟規約の定めにより効力が生じる(発効する)のは2年後の1935年。「宣言してすぐ抜けられるわけではない」という手続きの重みを本文から読み取るのがコツです。
- ミニ例:本文では、反対1・棄権1という投票結果のあと、松岡洋右代表団が退場し、その約1か月後の3月27日に正式な通告が行われたという順序で説明されています。
張作霖爆殺事件と柳条湖事件を同じ事件だと思い込んでしまう
- つまずく場面:どちらも「満州」「関東軍」「爆破」という同じキーワードが出てくるため、1つの事件の話を2回読んでいるように感じてしまいます。
- 克服のコツ:対象と結果で区別します。張作霖爆殺事件(1928)は特定の人物(張作霖)を狙った爆破で、実行者は処罰されず済んだ単発の事件。柳条湖事件(1931)は鉄道の線路を狙った爆破で、そこから満州事変という大規模な軍事行動に発展した点が違います。
- ミニ例:本文では、1928年の事件で処罰されなかった前例が、1931年の柳条湖事件をより大がかりにした土台になったと整理されています。
練習問題
- 張作霖爆殺事件
- 柳条湖事件
- 満州事変
- 満州国
- 五・一五事件
- 国際連盟脱退
- 二・二六事件
答えを見る
(1) 張作霖爆殺事件(1928):関東軍が満州の軍閥指導者張作霖の乗る列車を爆破して殺害した事件。実行者は処罰されなかった。
(2) 柳条湖事件(1931):関東軍が奉天郊外の南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と発表した事件。満州事変の発端。
(3) 満州事変(1931〜):柳条湖事件をきっかけに関東軍が政府の不拡大方針を無視して展開した軍事行動。半年で満州全域を占領した。
(4) 満州国(1932):関東軍が清朝最後の皇帝溥儀を執政に立てて建国させた国。「五族協和」を掲げたが実権は関東軍にあった。
(5) 五・一五事件(1932):海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した事件。1924年から続いた政党内閣の時代が断絶した。
(6) 国際連盟脱退(1933):リットン報告書の採択(賛成42・反対1・棄権1)を不服として、日本が国際連盟に脱退を通告した出来事。発効は2年後の1935年。
(7) 二・二六事件(1936):陸軍青年将校が高橋是清蔵相らを殺害したクーデター。鎮圧後、軍部の政治的発言力が決定的に強まった。
- 二・二六事件
- 張作霖爆殺事件
- 満州国の建国
- 柳条湖事件(満州事変の発端)
- 国際連盟脱退の通告
- 五・一五事件
答えを見る
(2) → (4) → (3) → (6) → (5) → (1)
- (2) 張作霖爆殺事件 ── 1928.6
- (4) 柳条湖事件(満州事変の発端) ── 1931.9
- (3) 満州国の建国 ── 1932.3
- (6) 五・一五事件 ── 1932.5
- (5) 国際連盟脱退の通告 ── 1933.3
- (1) 二・二六事件 ── 1936.2
答えを見る
解答例:柳条湖事件の発生後、第2次若槻礼次郎内閣は事件発生から3日後にこれを「事変」と認定し、6日後には領土的欲望を否定する「不拡大方針」を発表した。しかし関東軍はこの政府の方針を無視して独断で戦線を拡大し、半年で満州全域を占領してしまった。政府はこれを止めることができず、後から追認するかたちになった。政府が方針を示していたにもかかわらず現地の軍が独断で行動し、それを政府が抑えられなかったという点で、軍が政府の統制を外れた最初の決定的な事例とされている。
答えを見る
解答例:1924年の第二次護憲運動以降、加藤高明・若槻礼次郎・田中義一・浜口雄幸・若槻礼次郎(再任)・犬養毅と、8年間にわたって政党内閣が続いていた。1932年5月15日、海軍の青年将校が犬養毅首相を暗殺したことで、この本格的な政党内閣の時代が断絶した。事件後は元海軍大将の斎藤実による挙国一致内閣が組織され、以後、首相には政党出身者ではなく軍人や官僚が任命される時代が続くことになった。
答えを見る
解答例:二・二六事件は陸軍青年将校らによるクーデターで、鎮圧後に反乱軍として処罰されたが、これを機に「軍部大臣現役武官制」が復活した。この制度では陸軍大臣・海軍大臣は現役の軍人でなければならず、軍が大臣を出さなければ内閣そのものが組閣できなくなる。これにより、軍の意向に沿わない内閣は成立しにくくなり、軍が事実上政府の存続を左右する体制が固まった。五・一五事件で政党内閣が終わり、二・二六事件でその先の軍部支配が決定的になったという2段階の変化である。
まとめ
- 張作霖爆殺事件(1928):関東軍の独断行動が処罰されなかった前例。「満蒙は日本の生命線」論が広がる。
- 柳条湖事件(1931.9.18):関東軍が満鉄線路を爆破し「中国軍の仕業」と発表 → 満州事変。政府の不拡大方針(9.24発表)を無視して半年で満州全域を占領。
- 満州国建国(1932.3):溥儀を執政に。「五族協和」を掲げるが実権は関東軍。
- 五・一五事件(1932.5.15):海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺。1924年から8年続いた政党内閣が断絶。
- 国際連盟脱退(1933.3.27通告):連盟総会は賛成42・反対1(日本)・棄権1で報告書を採択。松岡洋右代表団が退場。発効は2年後の1935年。
- 二・二六事件(1936.2.26):陸軍青年将校が高橋是清蔵相らを殺害するクーデター。鎮圧後、軍部大臣現役武官制の復活で軍部の政治支配が決定的に。
- 五・一五=政党内閣の終わり、二・二六=軍部支配の確立という2段階で押さえる。
もっと知る ── 発展・実生活(出典つき)
※ 教科書の内容に、信頼できる出典をもとにした発展・実生活・時事の話題を補足しています(教科書そのものではありません)。
「不拡大方針」は事件からわずか6日後に発表されていた発展
国立公文書館の記録によると、柳条湖事件は1931年9月18日夜に発生し、9月21日には内閣がこれを「事変」と認定、9月24日には「領土的欲望」を否定する不拡大方針を発表しています。政府の反応自体は決して遅くはなかったのに、それでも関東軍の独断専行を止められなかった点に、この事件の重みがあります。
五・一五事件の翌日、大蔵大臣が首相を臨時兼任した発展
犬養毅首相が暗殺された翌日、高橋是清大蔵大臣が臨時に内閣総理大臣を兼任しました。この高橋是清は、前の記事で見た1931年12月の金輸出再禁止を行った大蔵大臣でもあり、のちの1936年の二・二六事件で命を落とすことになる人物です。
連盟総会の投票は「42対1」だけでなく「棄権1」もあった発展
国立公文書館の記録では、1933年2月24日の国際連盟総会での投票は「賛成42、反対1、棄権1」と記されています。「42対1」という数字だけを覚えると、それ以外の国がすべて賛成したように見えますが、実際には棄権した国も1つあったことがわかります。
二・二六事件の決裁書に残る「空白」発展
2月27日の戒厳令施行を決めた閣議書には、内閣総理大臣の決裁欄に臨時代理を務めた後藤文夫内相の花押(サイン)が残る一方、殺害された高橋是清蔵相の決裁欄は空欄のままになっています。公文書に残された、当時の混乱の生々しい跡です。
犬養毅の花押(サイン)は2種類使い分けられていた発展
国立公文書館の紹介によると、犬養毅は「草書体の『毅』の下に底線を加えたもの」と「丸みを帯びた行書風の『毅』」という2種類の花押を使い分けていました。井上毅や寺内正毅など、同じ「毅」の字を持つ同時代の政治家の花押と比べてみると、それぞれの個性が表れていて興味深いとされています。
