倒幕と大政奉還 を解く・整理する5ステップ
各ステップをクリックすると詳しい説明と例が開きます。
ステップ 1:ステップ1: 背景を「薩長同盟」と「幕府の権威低下」で押さえる
まずは大政奉還の前に何が起きたかを確認します。1866年1月の薩長同盟(坂本龍馬の仲介で、敵同士だった薩摩藩と長州藩が結んだ同盟)と、第二次長州征伐での幕府軍の撤退をセットで覚えます。第二次長州征伐の途中で将軍家茂が大坂城で病死したこともあり、幕府軍は事実上の敗北で撤退。幕府が長州一藩を屈服させられなかったことで権威が失墜した、という流れが大政奉還の前提です。
ステップ 2:ステップ2: 大政奉還の「狙い」を慶喜の立場から読み解く
大政奉還(1867年10月14日、京都・二条城)は、徳川慶喜が政権を朝廷に返した出来事です。ポイントは、これが「徳川を滅ぼすため」ではなく、徳川を生き残らせるための戦略だったこと。朝廷は江戸時代を通じて260年余り実際の政治の実権を握っていなかったので、合議制の新政府ができれば最大の実力者である徳川家が中心に残れる、という計算でした。
ステップ 3:ステップ3: 王政復古の大号令で状況が「ガラリと変わる」のを確認する
王政復古の大号令(1867年12月9日)は、岩倉具視や薩長らが出した宣言で、天皇中心の新政府を作り、幕府も摂政・関白も廃止するというもの。さらに慶喜には新政府の役職を与えず、領地の返納も要求しました。大政奉還からわずか2か月で、徳川を残す路線から徳川を排除する路線へと変わったことを必ず押さえます。
ステップ 4:ステップ4: 戊辰戦争を主要な戦いの順で並べる
王政復古に反発した旧幕府側と新政府軍の戦いが戊辰戦争(1868〜69)。順番は鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)→ 江戸城無血開城(1868年4月、西郷隆盛と勝海舟の会談)→ 会津戦争(1868年8〜9月、白虎隊の悲劇)→ 函館・五稜郭の戦い(1868年12月〜1869年5月)。新政府軍は錦の御旗を掲げて「官軍」となり、装備と士気で勝ちました。※戊辰戦争のさなか(鳥羽・伏見と江戸無血開城の間)に五箇条の御誓文が出される(次ステップで扱う)。
ステップ 5:ステップ5: 五箇条の御誓文で新政府の方針をまとめる
鳥羽・伏見の戦い直後、江戸無血開城より前の1868年3月14日に五箇条の御誓文が発表されました。教科書では特に次の3点が重視されます:(1) 広く会議を開いて公の議論で決める(公議)、(2) 身分にとらわれず心を一つにする(挙国一致)、(3) 知識を世界に求める(開国和親)。ただし原文は全5箇条で、上の3点に加え「官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げる」「旧来の陋習を破る」もあります。これが明治政府の出発点で、ここから廃藩置県・地租改正・徴兵令などの改革へ続きます。
これだけは覚える
薩長同盟(1866)→ 大政奉還(1867.10)→ 王政復古の大号令(1867.12)→ 鳥羽・伏見(1868.1)→ 五箇条の御誓文(1868.3)→ 江戸無血開城(1868.4)→ 函館五稜郭(1869)。慶喜は徳川を残す狙いで政権を返したが、倒幕派が王政復古で排除したため戊辰戦争になった、という因果を必ずセットで覚える。
よくあるつまずき
「大政奉還で明治政府が完成した」と誤解しがちですが、実際はその後に王政復古と戊辰戦争があります。また大政奉還(政権返上)と王政復古(新政府樹立)を混同しないこと。年号と用語だけ暗記して、慶喜と倒幕派の狙いの違いという因果関係を確認しないのも典型的なつまずきです。
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出典・最終更新
- 出典基盤:教科書(社会)の核となる手順と概念データに基づく整理。
- 編集方針:教科書頻出の解き方・コツを、段階的なステップに分け、つまずきポイントと核となるルールを併記しています。
- 最終更新:2026-06-27
